『文豪ストレイドッグス』が広げた「擬人化」の概念とは? エンタメ業界に与えた多大なる影響

先ごろ発売された『文豪ストレイドッグス』第28巻(KADOKAWA)において、同作の「第一部」が完結した。
『文豪ストレイドッグス』は、原作・朝霧カフカ、漫画・春河35による人気コミックで(2012年連載開始)、横浜の武装探偵社所属の探偵・中島敦をはじめとする、古今東西の「文豪」を擬人化したキャラクターたちが、いくつかの組織に分かれて壮絶な異能バトルを繰り広げる物語だ。
前巻(第27巻)のラストでは、第一部の黒幕的存在である“魔人”ドストエフスキーを敦たちはいったん追い詰めたものの、ドストエフスキーは先の先を読んで逃亡。今巻(第28巻)の序盤では、異形の怪物どもが現われ、一般市民を襲い始める。その場に残された敦と芥川龍之介(武装探偵社と敵対するポートマフィア所属)は、人々を救うか、ドストエフスキーを追うかの二択を迫られることになるのだが……。
ここから先の展開を書くのはやめておこう。だが、物語登場時は孤独な少年だった敦が、いまは探偵(異能者)としても、ひとりの人間としても、大きく成長し、その陰には頼れる仲間やライバルたちの存在があった――という、極めて少年漫画の王道的なクライマックスが描かれている、ということだけは書いておこう(注・『文スト』の掲載誌は少年誌ではなく青年誌だが、作品の根底にあるのは、少年漫画のヒット作の多くに見られる、「集団バトル物」の基底構造であると私は思っている)。
「擬人化」の概念と表現の幅を広げた作品
さて、本稿では、この『文豪ストレイドッグス』という作品が、出版界をはじめとするエンターテインメント産業全般に与えた影響について、あらためて振り返ってみたいと思う。
まずは、「擬人化」を用いた物語の表現の幅を広げた功績が挙げられるだろう。周知のように、『文スト』以前も以後も、擬人化されたキャラクターが登場する漫画、アニメ、小説、ゲームなどは、大きなIPビジネスの1ジャンルを形成しているといっていい(時には町おこしや企業のPRなどにも、擬人化されたキャラクターが用いられるようになった)。
ただ、その多くは、元となる存在(動物、国、刀剣、戦艦など)の特徴をそのままキャラクター化したものであり、実在の文豪とその作品のイメージを多少は「引用」しているものの、基本的には似て非なるキャラクターを生み出している『文スト』は、少々特異な存在だといっていいかもしれない(ちなみに、『文スト』との相乗効果で「文豪ブーム」を牽引してきたゲーム『文豪とアルケミスト』に出てくるキャラクターたちは、あくまでも文豪の「転生」であり、「擬人化」ではない)。
それにしても、だ。「文スト」の作者ふたりが、「人間を擬人化する」といういささか変則的な表現に取り組んで成功した点は、もっともっと評価されていいのではないだろうか(というのも、あらためていうまでもなく、「擬人化」とは、本来は「人間ではない存在」をキャラクター化するものだからだ)。たとえば、一見似たような(?)例として、戦国時代の武将など、歴史上の人物(男性)を美少女化したゲームがいくつかあるが、それらの多くはあくまでも、モデルとなった人物をそのまま異世界の美少女に「変換」したものであり、「擬人化」とはいえまい。
いずれにせよ、寡聞にして、「人間を擬人化」した作品の元祖が『文スト』であるかどうかを私は知らないが、少なくとも、同作がその方法論を確立し、エンターテインメントの世界における「擬人化」の概念や表現の幅を広げたということは間違いないだろう。
過去の「文豪」が身近な存在に
そしてもうひとつ。『文豪ストレイドッグス』という作品が、「文豪」という言葉の意味を広げ、若い世代の読者に過去の文学作品を読む面白さを知らしめたという功績も無視はできまい。
じっさい、これまでは、『文スト』に登場するキャラクターたちでいえば、漱石・鴎外のふたりは別格として、芥川や太宰のような国民的な作家でなければ、「文豪」とは呼ばれていなかったのではないだろうか(それ以外はたいてい「文士」であり、敵側のキャラクターでいえば、ドストエフスキーあたりが、本来の「文豪」と呼ぶにふさわしい作家か)。
しかし、本作では、主人公の中島敦のような、どちらかといえばマイナーポエットと呼ばれるべき作家たちも「文豪」として扱われ(注・作中でそういう風に呼ばれているわけではない)、さらには、江戸川乱歩や夢野久作といった、大衆文学の書き手たちも「文豪」として登場する(また、メディアミックスのスピンオフ作品では、澁澤龍彥のような異端の文学者や、綾辻行人・京極夏彦のような現代のエンタメ作家も登場する)。
こうしたある種の柔軟さが、「文豪」といういささか大時代的な言葉を身近なものにし、若い読者たちの読書欲を刺激することにつながっているのではないだろうか(好きになった漫画のキャラクターのモデルとなった人物が、現実の世界で書いた小説や詩を読んでみたいと思うのは自然な感情である)。じっさい、いま、都内の大きめの書店に行けば、角川文庫の棚では、必ずといっていいほど、『文スト』のキャラクターたちがカバーに描かれた文庫本が、平積みや面陳で展開されている。
むろん、芥川龍之介や太宰治、あるいは、中原中也や宮沢賢治の文庫は、『文スト』のカバーがなくても、いつの時代でも売れ続けるロングセラーだといえるかもしれない。また、江戸川乱歩や夢野久作の文庫も、ミステリ好きなら一度は手に取るたぐいの本だろう。しかし、国木田独歩や織田作之助、ましてや福沢諭吉はどうだ? たぶん、「文スト」のヒットがなければ、彼らの文庫が令和の書店で(しかもポップなデザインのカバーをかけて)平積みになることはまずなかっただろう。
だが、独歩にせよ織田作にせよ、それなりに名を成した作家が書いた本は、読んでみれば多かれ少なかれ得るものはあるわけで、そういう意味でも、『文豪ストレイドッグス』という作品は、本編で描かれている異能バトルの妙だけでなく、若い世代の読者に「未知の(過去の)文学を読む面白さ」も教えてくれている、「本読みのための漫画」だといえるのである。























