『チェンソーマン』と『鬼滅の刃』は似て非なる物語? デンジの“孤独”と炭治郎の“連帯”を考察

2025年のアニメを語るうえで避けては通れないのが、『チェンソーマン レゼ篇』と『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』の世界的大ヒットだ。いずれも北米の興行収入ランキングで初週1位を獲得するという快挙を成し遂げている。
同じ『週刊少年ジャンプ』(集英社)発の大ヒット作ということで、並べて語られている光景を多く見かける2作品。しかし実際にはこの2つの物語は、正反対と言ってもいいほど大きな違いが見られる。
まず基本的な設定を振り返っておくと、『チェンソーマン』はチェンソーの悪魔・ポチタと契約した主人公・デンジが公安にスカウトされ、デビルハンターとして戦っていくというストーリー。それに対して『鬼滅の刃』は鬼に家族の命を奪われた主人公・竈門炭治郎が鬼殺隊に入隊して戦いの日々に身を投じるという設定だ。
どちらも「人間に害をなす存在と戦うため、組織の一員になる」という部分は共通しているが、面白いのは倫理観や組織の描き方が正反対と言えること。基本的に組織を正義の側に置く『鬼滅の刃』に対して、『チェンソーマン』では組織が必ずしも正義の側に置かれていない。
『鬼滅の刃』における鬼は、人間の感情を理解できず、ただ自身の欲望のために動く存在。一部の例外を除けば、“絶対的な悪”として描かれていると言っていいだろう。そして鬼殺隊に所属している隊士たちは、自分の命を犠牲にしても構わないというほどに強い覚悟で鬼と戦う。
こうした鬼殺隊の描写で重要なのは、仲間たちと感情を分かち合う一体感が強調されているということだ。『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』では、まさに時透無一郎と悲鳴嶼行冥が「僕たちの父」を奪われたことへの怒りを共有し、戦意を高め合うというシーンがあった。
その一方で『チェンソーマン』において、公安と悪魔は善悪の両端ではない。「銃の悪魔」という分かりやすい悪が提示されるものの、物語の本当の軸はもっと別のところで動いていく。『レゼ篇』はそうした側面が顕著に出たエピソードで、公安もしくは国というものが、デンジやレゼのような少年少女をある意味で搾取し、利用していることが示されている。
言い換えるとデンジが対峙しているのは悪ではなく、“逃れられない世界の仕組み”そのもの。『チェンソーマン』は正しさそのものが揺らいでいる不安定な世界を描いており、だからこそどれだけ仲間が増えても孤独感がそこには付きまとう。『鬼滅の刃』が仲間たちとの一体感によって推進される物語であることとは、まさに正反対だ。
“今しかない”感覚で共感を誘う『チェンソーマン』
また両作品は、キャラクターの扱い方という意味でも対照的だ。『鬼滅の刃』は登場人物のバックボーンを掘り下げるとき、回想シーンを用いることが多い。その手法は味方側だけでなく、敵である鬼を描くときでも変わらない。
たとえば『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』では上弦の参・猗窩座が人間だった頃の記憶に焦点があたり、過酷な生い立ちや悲劇的な恋の顛末が明かされることに。たんなる凶悪な敵ではなく、そう生きることしかできなかった非業の人物として観客の前に提示されている。
一方で『チェンソーマン』では、キャラクターの背景はつねに断片的に提示されるだけにとどまる。レゼが国家に育てられた「モルモット」であることは明かされるが、その頃のことを直接回想するシーンは1つも存在しない。観客はレゼの表情や言動から、想像をふくらませることができるだけだ。
これは登場人物の背景をあえて伏せることで、解釈の余白を残す手法と言えるだろう。しかしそれだけでなく、同作に登場するキャラクターの多くが過去も未来もない、“今この瞬間”を刹那的に生きる存在であることとも関係している。
刹那的な生き方といえば、恋愛の描写においても作風の違いがよく表れている。『鬼滅の刃』では、恋愛を軸として物語が動くことがあまりない。鬼殺隊の隊士たちにとっては「鬼を倒す」という大義だけがあり、色恋沙汰に興じている暇はない……といった雰囲気だ。
それに対して『チェンソーマン』は、死が隣り合わせの殺伐とした世界観にもかかわらず、性愛込みの欲望に突き動かされた人々が多く登場する。『レゼ篇』はその頂点と言えるエピソードで、デンジもレゼも国家規模の抗争を無視して、自分の恋愛のために生きようとしていた。2人にとっては未来のことはどこか他人事で、今この瞬間の感情の高まりだけが現実というわけだ。
主人公たちが正義をなすために仲間と一体となって敵と戦う『鬼滅の刃』と、孤独に生きる登場人物たちが今ここの欲望に忠実に動く『チェンソーマン』。同じ『週刊少年ジャンプ』発のバトル漫画でありながら、これだけ幅広い作風の作品が同時期に登場し、両方とも世界的に大ヒットしているという事実そのものが、今の漫画文化の豊かさを証明しているのではないだろうか。
























