数学者・加藤文元に聞く、“圏論”がさまざまな分野で注目されるワケ「人間が世界を理解するときの、最適なモデルを与えてくれる」

「圏論」を学べば世界の見方が変わる

 わたしたちは世界を、つい「モノの集まり」として見てしまいがちだ。しかし、視点を変え、モノ同士を結ぶ「関係性」に注目すると、世界はゆるやかに繋がり、いきいきと見えてくる。

 これは、モノとモノをつなぐ「矢印」に注目する数学分野「圏論」の考え方に近い。実はわたしたちの無意識下の思考や、プログラミング言語の構造、さらには認知科学の領域にまで、この圏論的思考は応用されている。

 圏論は、わたしたちの思想の基盤を根本から変える可能性を秘めている。『はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門』(ブルーバックス)を上梓した加藤文元(かとうふみはる)氏に、「圏論」の基本と、これからの応用可能性について聞いた。

圏論の核心ーー「モノ」ではなく「関係」を見るということ

加藤文元『はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門』(ブルーバックス)

ーー『はじめての圏論』を読むと、圏論とは「関係」に注目した数学だとあります。これは大雑把にいうと、どういった考え方なのでしょうか。

加藤文元氏(以下、加藤):人間はつい「モノ」だけで世の中を見てしまいがちです。しかし、そのモノとモノを結びつける「関係」というのは目に見えません。「関係」こそが世界を形作る主体である、という考え方は、日常生活では普通しませんよね。しかし、それに近い思考法を実は私たちはとっています。

 たとえば、私たちは日常で無意識に「アナロジー(類推)」を使っています。世界を厳密なロジックだけで理解している人はいません。大抵の人は、論理で判断するのではなく、「これとこれって、なんだか似てるよな」と、ざっくりとした感覚で世界を捉えている。この「似てる」というのが、まさに圏論の考え方と深く関わるポイントなんです。

 そして実はこのアナロジーの判断も、モノとモノが直接似ているのではなく、そのあいだの「関係のネットワーク」が似ているという前提に基づいています。「あの会社の社員の組織図は、この会社とよく似ているね」というのも同じです。目に見えない関係性が似ている、というのを、私たちはよく指摘しているわけです。そしてこの考え方こそが、「圏論」の考え方にとても近い。圏論とは、モノをモノとしてみるのではなく、関係性のネットワークの中で見ましょうという考え方なんです。

ーーモノ自体ではなく、モノとモノを結ぶ目に見えない「矢印」にこそ真実がある、ということですね。

加藤:その通りです。そうすると、単独のモノしか見ていなかったときには見えてこなかった構造がだんだんと見えてくる。今度は、その構造が違う構造と関係してくる。関係と関係のあいだのメタ関係についても考えることができるようになるんです。人間はこういった考え方を無意識にやっているんですが、この思考を正確に説明する自然言語はありません。しかし、圏論を学ぶとそういった言葉が使えるようになります。「関手」とか「自然変換」といった言葉で、メタ関係、さらにそのメタ関係といったことを言い表すことができる。この辺りが圏論の基本的な考え方になります。

ーーそういわれてみれば、似た関係を見つけることは、日常的にしているかもしれません。

加藤:モノとモノを結ぶ「矢印」のネットワーク構造が、圏論で扱う主な対象です。ですが、それが何を表すか、というのは圏論では一切規定しません。そのモノはなんでもいいわけです。たとえば、レストランでハンバーグステーキを注文するときのセットメニューの関係でもいい。この究極の抽象性が、圏論の大きな強みであり魅力なのです。

圏論が必要とされた理由ーー言葉にできない構造を捉える

加藤文元氏

ーー本の中では、最大公約数のお話も出てきました。私たちも「この意見とこの意見の最大公約数をとりましょう」と日常的に使いますが、これも圏論と関係があるのでしょうか。

加藤:実は最大公約数という言葉は、わたしたちが圏論的な言葉を自然言語で持っていないので、なんとか言語化しようとしてできた産物だと、私は考えています。たとえば「この意見とこの意見の最大公約数をとりましょう」とよく言いますが、実はこれは圏論的なコンストラクション(構成)の一種なんです。

 圏論では「直積(direct product)」というコンストラクションがありますが、これを使うと、本当に最大公約数ができるんです。この二つの結果の最大公約数を取ると、こういう結果になりそうだ、といったやんわりとした話をするときと、実は全く同じことをしている。最大公約数というのは、直積という言葉で置き換えられる。現実でもこういった圏論的な言葉が使えるようになれば、より正確にモノとモノの関係を捉えられるようになります。

ーー興味深いです。そもそも、この極めて抽象的な「圏論」の考え方は、いつ頃、なぜ必要とされて生まれたのでしょうか。

加藤:歴史的に申しますと、代数的位相幾何学の分野ではじめに圏論を導入したマックレーンとアイレンバーグという人がいました。彼らの問題意識は、今日いうところの自然変換というものを数学的に定義したかったんです。それまでの数学では、変換といったことは少しいい加減なところがありました。ある変換が「自然だ」と言うものの、その自然であることの意味を厳密には説明していなかった。

 彼らが研究していた代数的位相幾何学は、別名トポロジーともいわれ、「コーヒーカップとドーナツは同じ図形だとみなす」という分野です。この分野では、「ホモロジー」という重要な概念があります。ホモロジーを最初に定義したのはポアンカレという人ですが、19世紀から20世紀ごろの話です。ここで問題なのは、ホモロジーには多くの計算方法があって、定義の仕方も様々にあるのに、なぜかみんな結果が同じだったんです。これがおもしろい。計算するときに、図形に則した幾何的な計算方法もあれば、微分を使う計算もある。でも、なぜか同じ結果が出てしまう。

ーー計算方法が違っても、なぜか同じ結果が出る「同じさ」の正体を知りたかった、ということですね。

加藤:そういう言い方もできるでしょうね。「同じ」ということの意味は存外難しい。違う方法で計算したのに、結果は同じというときの「同じ」とはいったいどういう意味なのか。数学には「同型」という概念があるのですが、同型だとみなす方法というのはたくさんあり得ます。その中に一番自然な同じさがあるわけです。そういうのをちゃんと説明しないと、自然変換にはつながりません。それをちゃんと言語化しようとして、圏論という学問ができたわけです。

数学者の喜びーー「関係」が「モノ」を変える瞬間

ーー圏論が生まれたのは比較的最近の学問なのですね。先生が初めてこの概念に出会ったときの喜びは、どのようなものでしたか?

加藤:喜びというより、衝撃に近いものがありました。関係がモノを規定するということが、圏論を学ぶと身につまされるわけです。「圏」というのは、モノの集まりと関係の集まり、二つのファクターがあります。人間は、何かを柔らかく変形しようとしたとき、とかくモノ自体ばかり目を向けがちです。しかし、関係を変えるだけでモノが変わることが数学の世界ではたくさんある。

 たとえば、関係の束の数を少し減らすと、モノとモノとの関係がなんとなく疎遠になるので、固くなったように見えます。逆に関係を増やしてあげると、モノとモノとが密接に結びついて、全体の温度が上がった感じがしてきますし、動きも柔らかくなったように見えてくるわけです。

ーー「モノを変えずに、関係を変えるだけで全体が変わる」という視点は、社会や組織のあり方を考える上でも示唆に富んでいます。

加藤:いま感覚的なお話をしましたが、数学では定義をするとき、モノ自体を変えないで関係概念だけ変えることをします。それって、まさに圏論的な考え方に基づいています。20世紀中頃の数学は様々な発展がありましたが、その頃から見ればいまの数学的発展は誰も予想しなかったようなものになっています。「関係がモノを規定することがあるんだ」という発見こそが、圏論が数学界にもたらした最大の衝撃だったのかもしれません。

圏論の応用と未来ーー私たちの思考法を変える

ーー応用分野としては、プログラミングの世界で圏論が導入されていると聞きますが、これはなぜなのでしょうか。

加藤:プログラミング言語を構造化するのに、圏論というのはまさにうってつけの考え方なんです。特に、関数型プログラミングの世界で重要視される「モナド」という概念には、抽象的な「計算の文脈」を扱う上で、圏論の考え方が深く関わっています。これはプログラミング言語に由来する考え方だと思っています。

 また、哲学、社会科学、脳科学といった分野でも、圏論が意識され始めています。たとえば認知科学では、「現実を見るときに、何と何が同じである、という見方をある種コンシステントに与えること」が意識だ、というように、圏論的なフレームを使って意識の構造を規定しようとしています。その生物にとって、これとこれは同じものだ、という考え方は、生きるために必要な世界理解であり、世界モデルですよね。そういうものをコンシステントに作れることが、その生物にとっての意識なのだということです。

 圏論はモノと矢印を扱いますが、そのモノと矢印が何であるか、というのは一切言わない。それがかえってこの学問が学際的に応用を広げることに寄与していると思います。人間が世界を理解するときの、最適なモデルを与えてくれるんです。

ーー私たちの思考法は、まだモノが中心の「非圏論的」ということですが、この本を学ぶ意義は、単なるツール以上の「思想の基盤」を得ることにあるのですね。

加藤:その通りです。圏論は私たちに思想の基盤を与えてくれます。いままで私たちに見えてこなかった現実の風景が見えてくるかもしれませんし、考えもつかなかったような視点が得られるかもしれません。

 『はじめての圏論』では、かなり噛み砕いて圏論を説明しています。それでも内容は難しいと思いますが、ぜひチャレンジしてほしいと思います。圏や関手・自然変換の基本くらいまでは、誰でも無理なく腰を据えて読めば、理解できると思います。

ーーこの本を読めば、モノとモノのあいだの「矢印」が浮かび上がって、その関係が立体的に見えてくるかもしれませんね。

加藤:「立体的」というのはいい表現だと思います。モノの集まりとしてしか世界が見られないのでは、世界が殺伐としたものに見えてしまう。 でも、その中に見えない関係がたくさんあるんだ、という視点は、世界へのまなざしとして非常にあたたかいものなのではないでしょうか。圏論の言葉でコミュニケーションできる日がくることに期待しましょう。

■書誌情報
『はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門』
著者:加藤文元
価格:1,320円
発売日:2025年10月23日
出版社:講談社
レーベル:ブルーバックス

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