【短期集中連載】戦後サブカルチャー偉人たちの1945年 第三回:戦火の下の子どもたち
野坂昭如、高畑勲、中沢啓治……それぞれの戦争体験とは? 「戦火の下の子どもたち」の生き方

小説『火垂るの墓』、『麻雀放浪記』、映画『ゴジラ』、『仁義なき戦い』、漫画『アンパンマン』……今日まで愛されるコンテンツに、作者の戦争体験が投影された作品は少なくない。戦後の文学、映画、漫画などのサブカルチャーの担い手の多くは、終戦時に幼児であった人間も含めて、何らかの形で戦争を経験していた。ある者は戦場に行き、またある者は家族と死に別れ、またある者は外地で終戦を迎えて苦難の末に帰国した……。そこには、同じ戦争体験といっても、千差万別のドラマがあった。
終戦から80年を迎える2025年8月、リアルサウンド ブックではライター・佐藤賢二による短期集中連載「戦後サブカルチャー偉人たちの1945年」を掲載する。第三回は「戦火の下の子どもたち」と題して、野坂昭如、高畑勲、中沢啓治の戦争体験を振り返る。
第一回:やなせたかし、笠原和夫、川内康範……それぞれの戦争体験とは? 「戦わなかった兵士たち」の葛藤
第二回:江戸川乱歩、円谷英二、長谷川町子……それぞれの戦争体験とは? 「戦時下の表現者たち」の生き方
野坂昭如:『火垂るの墓』の虚像と告白
野坂昭如/小説家・タレント
・1930年10月10日〜2015年12月9日
・1945年の年齢(満年齢):15歳
・1945年当時いた場所:日本国内 福井県坂井市

アニメ映画『火垂るの墓』の原作者として知られる野坂昭如だが、同作の主人公の清太と現実の作者の体験は似て異なり、野坂はみずからそれを何度も言及している。
野坂の生地は神奈川県鎌倉市だが、生後間もなく母が亡くなり、兵庫県神戸市に住む母の妹夫婦の養子となった。自分が養子だと知ったのは、日米開戦が起こった1941年のことだ。野坂の『アドリブ自叙伝』(現在は『人間の記録 188 野坂昭如』(日本図書センター)に収録)によれば、当時の神戸は、海軍の観艦式も行われる港町なので、子供たちの誰もが軍艦の型や性能に詳しかったという。また、近隣住民や父の仕事関係者には朝鮮人、中国人、インド人、ドイツ人なども入り混じり、国際色豊かな環境だった。ただ、朝鮮人や中国人の学友が公立学校を受験しにくい立場だったことを「考えたこともなかった」と記している。
戦時下の1942年4月、養父母は生後2か月の娘を養女にするが、10か月ほどで病没してしまう。続いて1944年の初夏、また生後間もない恵子という養女を迎えた。これが『火垂るの墓』での節子のモデルになった現実の野坂の妹だ。養母は子供が産めない身体だったので、なお子供に愛着が深く、なまじ一人目の女の子を手塩にかけて育てただけに、あきらめきれなかったのかもしれないと野坂は推察している。
戦局が押し迫った1945年、神戸市立第一中学校に在学していた野坂は高射砲陣地構築の作業に動員された。同年2月以降、神戸はたびたび空襲に見舞われる。そして6月5日、野坂の家も焼夷弾の直撃を受ける、煙と猛火の中で父と母を呼ぶが返事はなく、そのまま炎上する家から親を見捨てて逃げ出した(のちに養母は助かったと判明)。

野坂はひとまず、幼い恵子とともに西宮の親類の家に身を寄せる。この家にいた2歳上の娘に恋心を抱いていたものの、別の親類を頼り、より安全と思われた福井県坂井市に疎開して同地で終戦を迎えた。その間、一緒にいた恵子の身体から虱を取ったり、おしめを洗濯することを厭わなかったが、当時の食糧事情は極めて悪く、まだ2歳に満たなかった恵子は、終戦から間もない8月22日に栄養失調で亡くなってしまう。
『アドリブ自叙伝』には、終戦を迎えたとき、「八月十五日ではなく、六月一日に玉音なるものが放送されていたら、ぼくの家族も死ななくてすんだ」と腹を立てたことが記されている。また、『ジブリの教科書4 火垂るの墓』(文春文庫)に収録された高畑勲との対談では、灯火管制がなくなり、町に灯りが戻ったことが、逆説的に「こわかった」と語っている。闇の中の暗い世界に生きる覚悟を固めていたからだ。
その後、別の親類のもとで過ごしたのち上京。食料難のため盗みを働いて少年院に入るが、実父が保証人となったことを機に、養父母の姓から野坂の姓に戻った。
時は流れ、1967年、妹への鎮魂の念から野坂は『火垂るの墓』を執筆、闇市時代の体験を記した『アメリカひじき』とともに、第58回直木賞を受賞する。

受賞の直後から野坂は、自分の小説が事実そのままではないことをさまざまな場で語っている。とりわけ、1972年に刊行された『俺はNOSAKAだ』(文藝春秋)の記述は露悪的だ。空襲で家を失った直後、役所が発行する罹災証明書を手に入れたおかげで、列車の切符は無料、米、毛布、乾パン、缶詰を方々でもらい、小学校の教室に泊まることを許され、「運よく難まぬかれたものが、逆にひがむほど」だったという。そして、「主人公と俺を同一視する向きがあるけれど、俺ははあんなにやさしくはなかった。一歳半の妹の頭もなぐったし、その食い扶持を奪い、二つ年上の女とけっこう遊び歩いていたのだ、罹災証明書を武器に」と記す。
確かに小説は悲劇的に粉飾されているが、終戦時に14歳だった野坂自身、自分が直面した現実を整理しきれず、そのまま書くことはできなかったのだろう。
アニメ映画『火垂るの墓』の公開はバブル期の1988年、併映の『となりのトトロ』を楽しみに来た観客たちは、その救いのないラストに愕然とさせられた。野坂自身は、この映画に激しく涙し、最後まで観通すことに耐えられなかったという。























