【短期集中連載】戦後サブカルチャー偉人たちの1945年 第三回:戦火の下の子どもたち
野坂昭如、高畑勲、中沢啓治……それぞれの戦争体験とは? 「戦火の下の子どもたち」の生き方

高畑勲:炎の中で闇夜をさまよった「人生最大の事件」
高畑勲/アニメ監督、プロテューサー
・1935年10月29日〜2018年4月5日
・1945年の年齢(満年齢):10歳
・1945年当時いた場所:日本国内 岡山県岡山市
高畑勲は、多くの著作やインタビュー記事で、自分の監督作品である『火垂るの墓』は「反戦映画ではない」と語っていた。その背景にある心理は複雑だ。
伊勢神宮のある三重県宇治山田市(現在の伊勢市)が高畑の故郷だ。父の高畑浅次郎は中学校の校長を務めており、幼少期は父の転勤にともなって、三重県津市、さらに岡山県岡山市に移り、1942年に岡山県立師範学校男子部付属国民学校に通う。

エッセイ集『アニメーション、祈りにふれて』(岩波書店)に収録された「お国自慢」という文章によれば、当時の高畑は岡山の低い山や瀬戸内海のさざ波を物足りなく思い、信州の峻厳な山岳や太平洋の荒波のような景色に憧れたという。同書の「戦争とアニメ映画」という文章では、1944年に公開された海軍省指導の国策アニメ映画『桃太郎 海の神兵』の技術水準の高さ、多くのスタッフが徴兵されたこと、戦時下にこの作品を観た手塚治虫が大きな影響を受けたことを述べているが、当時自分も観たとは記していない。
「人生最大の事件」と高畑がみずから語るのが、1945年6月29日の岡山大空襲だ。戦後70年を経た2015年、岡山市民会館で行われた戦没者追悼式での講演をまとめた、『君が戦争を欲しないならば』(岩波書店)には、その内容が詳しく語られている。

夜中、外の騒がしさに気づいて目を覚ますと、空襲警報がないまま南西の空が赤くなっている。家の前に飛び出すとすでに多数の人々が避難を始めており、父母や兄らの姿を確認するまでなく、姉とともに必死に東の方角へと向かった。
町の中を逃げまどううちに次々と焼夷弾が降り注ぎ、周囲は行き場のない火の海となっていく。父母や兄らは無事なのかもわからず、不安は収まらない。目の前で姉は爆発に巻き込まれて身体に幾つも破片が刺さり、高畑はどうにか姉を助け起こした。空襲が収まったあとには、大量の煤を吸い込んだ黒い雨が降りはじめる。運よく姉の知人に会ったのでその家に泊めてもらったのち、大量の死体が転がる市街でほかの家族を必死に探した。2日後、ようやく別途に逃げていた父母や兄らと再会を果たした。
また、『私の戦後70年談話』(岩波書店)では、当時9歳の高畑はまだ軍国少年になっていたものの、終戦による時代の激変や年長者の動揺に直面して、「世の中に絶対的な価値というものはなく、何事も相対的であるらしい、ということを幼くして学んだ」と述べる。これは、10〜20代で終戦を迎えた世代の多くに共通する感慨だ。
ちなみに、高畑の父の浅次郎は独特の信念を持つ教師だった。終戦直後、昭和天皇が巡幸で岡山を訪れたときは、「ありのままをお見せしなければご巡幸の意味がなくなる」と考え、粗末な校舎も校長室は普段通り、特別な椅子を用意することもなく迎えたという。浅次郎は後年、教育界での功績により岡山県初の名誉県民の一人になった。
戦後の高畑は、東京大学教養学部文科二類に進学したのち、東映動画に入社して同僚の宮﨑駿、大塚康生らと親交を結ぶ。子供のための表現に強くこだわり、日本アニメーションに移籍後、『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』ほか多数の作品を手がけた。
さて、冒頭に挙げたように、高畑は『火垂るの墓』は反戦映画ではないと考えていた。『君が戦争を欲しないならば』では、この映画のように「戦争がもたらした惨禍と悲劇」を描いても、「将来の戦争を防ぐためには大して役に立たない」と述べ、その理由は、戦争をはじめたがる人々はむしろ「あんな悲惨なことにならないためにこそ」、軍備の増強が必要だと主張するのだと語っている。
同書で高畑は、2005年に韓国で『火垂るの墓』の公開に対して猛反発が起こったことに触れている。それより以前にも香港の若者から、「日本の加害者としての側面が描かれていない」と指摘を受けていたので、韓国での反発に驚きはしなかったが、「それほど支配を受けたり侵略されたりしたことによる傷は深いのだ、と肝に銘じています」と述べている——まさに、敗戦を機に獲得した相対的な視点だ。ただ、続けて韓国のある大学生から、長年日本を憎んでいた祖母が『火垂るの墓』を見て涙を流した話を挙げている。高畑の作品は、国や民族を超える普遍性を持っていたのだ。























