育児も仕事も“詰みそう”なあなたへ――『対岸の家事』朱野帰子が語る、普通の女性たちの「孤独」と「光」

朱野帰子『対岸の家事』インタビュー
朱野帰子『対岸の家事』(講談社文庫)

 いまや子育て世帯の約8割で、母親も働いており、女性にとって家事・育児・キャリアのバランスはますます複雑化している。多様な生き方が尊重される一方で、明確なロールモデルが見つけにくくなっているのが現状だ。そんな令和7年の春、多くの人の共感を集めたのがTBS系火曜ドラマ『対岸の家事~これが、私の生きる道!~』だった。

 孤独な専業主婦、限界をむかえたワーキングマザー、育休パパ……。異なる立場にいる「対岸の人たち」の間に“橋”を架けるように描かれたこのドラマの原作は、朱野帰子さんの小説『対岸の家事』(講談社文庫)だ。2019年にも同枠でドラマ化された『わたし、定時で帰ります。』を代表作に持つ朱野さんは、「労働」という切り口から時代を鋭く見つめてきた。

 今回のインタビューでは、作品誕生の背景や家事、キャリア観の変化について語られ、今後さらに複雑になっていく未来に思いを馳せるとともに、『対岸の家事』の続編を期待せずにはいられなくなった。(佐藤結衣)

ごく普通の女性が、仕事と家事の両立に挑む「無理ゲー」時代へ

朱野帰子氏

――わたし個人も今まさに育児中でして、小説もドラマも楽しく拝見させていただきました。特に「今日は休めない」というときに限って保育園からお迎え要請がくるシーン。礼子の「ゲームオーバー」というつぶやきはとてもリアルで震えました(笑)。

朱野帰子(以下、朱野):あるあるですよね。わたし自身も、第二子を妊娠しながら仕事をしていたときに、他の作家さんとの対談がある日に限って第一子が肺炎で入院する、なんてこともありました。

――それは本当に大変でしたね。その話も、わたしがまだ子育てをする前に聞いていたら、ここまでリアルな「詰んだ」感は想像できなかったと思います。そう思うと、まさに「対岸の人」だったんだなと。

朱野:人生って、実際に当事者になってみないとわからないことばかりですよね。この『対岸の家事』を執筆したのも、大学時代の後輩の実体験を聞いたことがきっかけでした。書店員をしていた彼女は、育児に専念するために専業主婦になったものの、子どもを連れて児童館に行ったとき、まさにドラマの冒頭のように育休中のママたちから「仕事は?」と聞かれたんです。「家事と育児です」と答えても、「うん、で、仕事は?」って。後輩は笑って話していましたが、心の中では「もう専業主婦がマイノリティの時代なんだ。新しいフェーズに入ったな」と。

 わたしは就職氷河期の後期世代にあたります。2002年の新卒入社当時は、女性の総合職もようやく珍しくなくなってきたものの、出産後も働き続ける「ワーママ(ワーキングマザー)」はまだまだ少数派でした。なので、わたしは少しツッパった気持ちで、主婦にはなるまいと決意していたんです。仕事も家事も、夫と平等に分担する、新しい時代の女性になるんだ、と。それが、いつの間にか多数派になっていたことがショックでした。

――ずいぶん短期間で逆転しましたね。

朱野:そうですね。わたしの母も、親戚も、周囲の年上女性たちはほとんどが専業主婦。出産しても働き続けられたのは、能力的にも環境的にも恵まれたごく一部のスーパーウーマンだけでした。しかし、いまでは仕事と育児の両立を選ぶ女性たちは珍しくない。サポートしてくれる環境が十分に整っている女性でないと、子育てをしながらキャリアを築いていくのは大変です。仕事でも家事でも、やらなければならないことばかりが一律に増えていて、もはや「無理ゲー」と言わずにはいられません。

印象的だった「中谷が自分に似すぎてて気持ち悪い」という令和パパの声

――『対岸の家事』は、『わたし、定時で帰ります。』よりも後に発売されましたが、実はその前から執筆されていたとお聞きしました。

朱野:そうなんです。『対岸の家事』は、書いては直し、また書いては直し……を繰り返しているうちに、気づけば5年くらい経ってしまっていて。「もう無理だ」と思ったころに、少し肩の力を抜いて書いたのが『わたし、定時で帰ります。』でした。

 いま思えば、『対岸の家事』がうまく書けなかったのは、まさに当時の自分が育児に没頭していたからだと思います。わたし自身が感じていた子育て中の怒りとか苦しみとかが渦巻いたような原稿になっていて、担当編集さんから「これ、愚痴になってます」と言われたこともあったくらい(笑)。

 ひとは、自分が乗り越えていない問題を客観視できないし、冷静に捉えることも難しいんだなと実感しました。一方で、『わたし、定時で帰ります。』は、会社を辞めてからすでに10年ほど経っていたので、自分の中である程度整理ができていたんだと思います。

――愚痴バージョンも読んでみたかったです(笑)。当初は構成もいまとは異なっていたとお聞きしました。

朱野:それも執筆がうまくいかなかった理由のひとつでした。もともとは、専業主婦の詩穂が近所に住む団塊世代のおじさんから家事を押しつけられそうになる……といった対立構造にしていたんですが、書けば書くほど楽しくない対立構造になってしまって(笑)。そこで、そのおじさんの要素を詩穂のお父さんに引き継がせたことで、ようやく物語がうまく進み始めました。おじさんの代わりに、詩穂が対立する相手として登場させたのが「家庭と仕事の両立ができる人間こそが素晴らしい」という考えを持つ“新時代のマッチョ男性”である中谷でした。

 『対岸の家事』の反響で印象に残っているもののひとつが「中谷が自分に似すぎてて気持ち悪かった」という男性の声です。これまでドラマで描かれてきた“育児をする父親像”って、たとえばシングルファザーのような「特別な事情を抱えた人」であって、共働きで自発的に家事や育児をしている男性が丁寧に描かれることってあまりなかったんですよね。だから、視聴者によっては中谷を「自分を映す鏡のような存在」として見たのかもしれません。

――なるほど。そういう意味での“気持ち悪さ”だったんですね。

朱野:とはいえ、中谷的な考え方の男性ってまだまだ少数派だとも思っていますし、そういう存在が出てくることで、かえって「あそこの旦那さんは家事も育児もしているのに、なんでうちは……!」といった苦しみが生まれてしまっているのかなとも思います。

 中谷のセリフではありませんが、家事や育児って「能力の高いほうがやる」ことになるんですよ。できる人って、どうしても低いクオリティには耐えられないから。「家事や育児は女性がやるべきだ」みたいな空気があったけど、最近では働き方も多様化していますし、これからは“どちらの能力が高いか”で自然と分担していく家庭が増えていくんじゃないかなと思います。たとえば、夫が在宅勤務で妻が出社するスタイルの家庭も最近は珍しくないじゃないですか。家のことはほとんど夫が担っていて、ラフなパジャマ姿で在宅ワークをしつつ、子どものお迎えに行って、Amazonの荷物を受け取って……。これからはそうした新しいライフスタイルの家庭を描くホームドラマがもっと増えていくのかなと。

――それは楽しみですね。その一方で、多様化が進むほど共感できる層はどんどん限定的になっていくのではないでしょうか?

朱野:『対岸の家事』のドラマが放送する直前にエゴサーチをしていたら、独身の方がSNSで「わたしには関係ないドラマが始まっちゃうな」って投稿していたんですよね。たしかに、世の中全体で見ると子育て世代ってもう20%くらい。その中で専業主婦となると、そのうちのさらに20%程度で……。しかも、TBS火曜ドラマ枠って“新しい時代の女性たち”を描くことに力を入れてきた枠なんですよね。そんな中でキラキラした働く女性たちではなく、ギリギリでボロボロの主婦やワーママを突きつけるような作品を放送するなんて、「これ、誰が観るんだ!? やっちまったかも……」って、本気で怖くなりました。

――でも、結果的には杞憂に終わりましたね。第1話のTVer再生回数が300万回を突破して、同枠の歴代1位にもなりました。

朱野:メインターゲットとしては、確かにごく限られた層だったのかもしれません。それでも多くの人に見ていただけたのは、そこに普遍的な感情が込められていたからだと思うんです。これまでのテレビドラマって、「働く女性とはこうあるべき」とか「お母さんとはこうあるべき」といった、どこか大まかなイメージで描かれてきた部分がありました。だからこそ、むしろ細かく丁寧に描くことでリアリティが増して、異なる立場の人にも“共感の入り口”が見えてくるのかもしれませんね。

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