このまま人類は「進歩」の名のもとに滅びるのか?――哲学者ジジェクが『「進歩」を疑う』で発した警告

〈まずは、人類の地球規模的かつ直線的な進歩という考え方を捨てよう〉。1990年代から現在にいたるまで、ラカン派精神分析とケレン味のある語り口を武器に世界中でファンをもつ哲学者スラヴォイ・ジジェクの評論集『「進歩」を疑う なぜ私たちは発展しながら自滅へ向かうのか』(NHK出版新書)は、これまで当たり前とされてきた“進歩”の考え方に疑問を投げかける一節から始まる。
たしかにわれわれは人類の進歩を信じることができない時代に生きている。この評論集の英語版が刊行されたのは2024年なので、いわゆる「トランプ2.0」以降の情勢は反映されていない。しかし、同年の米大統領選と映画『シビル・ウォー』を題材にした章でジジェクが言うように、〈もし[複数の重罪訴訟で有罪判決を受けた]トランプが勝てば、法の支配として今日理解されているものは、権力の分立も含めて終焉を迎える〉。言ってしまえば、われわれはまさにそのような世界に足を踏み入れてしまったのだ。もちろんそれにくわえて、悲惨な戦争や危機的状況にある気候変動を食い止める手立ても、そうかんたんには見つかりそうもない。
「真の進歩」とは何か──ジジェクの提案

では、われわれはすべてを諦めて自らの生存と現状維持だけに専心するしかないのか。ジジェクはその姿勢にも「No」をつきつける。彼が目指すのは「真の進歩」だ。ジジェクは次のように言う。
〈真の進歩とは2つの段階を踏む。第一に、現時点で進歩として捉えられているものに向かって、私たちは一歩を踏み出す。しかし、この進歩の犠牲となったつぶれた鳥たちの存在に気づいたとき、私たちは進歩の概念を再定義する〉
すなわち、進歩を諦めずに前進しつつも、それがもたらした結果をつねに検証して軌道修正を図りつづけること。ひとつの凝りかたまったゴールに固執しないこと。だからこそ、ジジェクはさまざまな時事や言論を矢継ぎ早に評論しつづける。斎藤幸平の「脱成長コミュニズム」、加速主義とシンギュラリティ、ロシアの退役上級大将のインタビュー、フランス国民連合のマリーヌ・ル・ペンによる演説、イスラム系反乱勢力による中央アフリカでのクーデター、ロシア出身の哲学者がガザでの事態について語ったテクスト、韓国での「ウェブ小説」の流行……。ひとつひとつの具体的なものごとの成否を見極めつづけることだけが「真の進歩」につながるとでも言うようだ。
上記のそれぞれが具体的にどのように分析されているかはじっさいに読んでみていただくしかないが、ジジェクの姿勢がもっともわかりやすくあらわれているのは第7章「真の変革のための実践主義」だろう。ここで彼は、レーニンの〈共産主義者は、幻想を抱かず、落胆に沈まず、活力と柔軟性を保ちながら何度も何度も「出発点から出発する」ことできわめて困難な作業に取り組むとき、破滅を免れる〉という言葉を導きの糸としながら、現代の3つの発言や議論を肯定的に評価している。
ひとつは、ギリシャの経済学者ヤニス・バルファキスの「テクノ封建制」論だ。バルファキスによれば、現在の資本主義はもはや昔のような「市場の支配」ではなく、巨大テック企業が人々の生活や選択の根本をコントロールする「テクノ封建制」と呼べるものに変わってしまった。そうした時代に、従来の左派リベラルが掲げてきた「福祉国家を守ろう」や「反資本主義を訴えよう」といった主張だけでは通用しなくなっている。この見方に対して、ジジェクは既存の政治的立場にこだわるのではなく、「ゼロ地点からの再出発」を、積極的に評価している。
ジジェクは、これと共通する姿勢を左派のバルファキスだけでなく、国家の安全保障の中枢を担ってきた二人にも見出していく。イスラエルの防諜機関のトップだったアミ・アヤロンは、かつての敵であるパレスチナ指導者のマルワン・バルグーティの釈放と、パレスチナ国家創設に向けた交渉こそが、イスラエルの真の安全保障につながると主張している。また、ウクライナ軍のヴァレリー・ザルジニー総司令官(当時)は、戦況を冷静に分析し、陣地戦からドローンなどの無人システムによる遠距離戦争を念頭においた新しいシステムへの移行が必要だと述べた。とくにザルジニーの提言についてジジェクは、その柔軟な姿勢に「レーニン的な介入の模範」とまで評している。
右でも左でもない視線──希望を見出すために
「保守寄りの共産主義者」を自認するジジェクは、本書でトランプやル・ペンのような右派ポピュリズムには否定的な姿勢を示す一方で、リベラル勢力の偽善にも鋭く切り込む。その上で、左右の立場にとらわれず、どこに希望の芽があるかを探り続けるのである。ジジェクの言う「真の進歩」とは、まさにそのような視線の先にあるのではないか。
便利な技術がどんどん生まれ、経済も成長している。だけど、世界はなぜこんなにも不安定で、生きづらくなっているのか――。戦争は続き、気候変動は深刻化し、格差は広がるばかりだ。そんな今の時代に、「人類は進歩している」と言い切ることが、どれだけ難しくなっているかは、誰もが感じていることだろう。
ジジェクは、「進歩そのものを疑え」と言っているわけではない。むしろ、「どこに向かって進むのか」を、立ち止まって見直すべきだと呼びかけている。前に進むだけではなく、その進み方が誰かを犠牲にしていないか、自分たちの足元を見失っていないか――そう問い直しながら、何度でもやり直す姿勢が必要だと訴えているのだ。
進歩にすがることで世界を救える時代は、もう終わった。問題は、その事実を受け入れた上で、あなたはどこに進むつもりなのか、ということだ。ジジェクはそんな問いを、わたしたちに突きつけ続ける。
とはいえ、もちろんジジェクの言っていることがすべて妥当だとは限らない。本書のところどころで見られる「絶望以外に救済の道はない」「破局は免れない、だから行動せよ」といった言葉にたいしては、なかばヤケクソになってるじゃないかというツッコミも可能かもしれない。ジジェクの議論からどのような刺激を受け、どのような行動に移すかは読者に委ねられている。
■書誌情報
『「進歩」を疑う なぜ私たちは発展しながら自滅へ向かうのか』
著者:スラヴォイ・ジジェク
翻訳:早川健治
価格:1,375円
発売日:2025年7月10日
出版社:NHK出版

























