注目の復刊続く手塚治虫 黄金期から冬の時代、そして復活へ “漫画の虫”激動の人生を振り返る

注目の復刊続く手塚治虫 黄金期から冬の時代、そして復活へ “漫画の虫”激動の人生を振り返る

■どん底からの奇跡の復活

『ブラックジャック』(秋田書店)

  漫画家としての生命は絶たれると思われていたが、昭和50年代に入り、手塚は奇跡の復活を遂げることになった。そのきっかけになったのが、1973(昭和48)年に「週刊少年チャンピオン」で連載が始まった『ブラック・ジャック』だ。手塚の復活を象徴する記念碑的な作品となっただけでなく、現在も読み継がれる最大級のヒット作である。

  短期連載の予定で始まり、編集部の期待度も決して高くはなかったといわれる。ところが、前評判を覆すように人気は上昇していく。いつの間にか長期連載となり、少年チャンピオンコミックスで25巻、全242話を発表する人気作となった。1977(昭和52)年、「週刊少年チャンピオン」は少年誌で最多の200万部を突破したが、同誌の牽引役になった作品の一つといえるだろう。

『ブラック・ジャック創作秘話 手塚治虫の仕事場から』(秋田書店)

また、1974(昭和49)年からは「週刊少年マガジン」で『三つ目がとおる』を連載開始した。劇画調の絵が多い中で、手塚の丸っこい絵は目を引き、こちらもヒットした。この時期の手塚は昭和20年代に比肩するほど漫画を量産し、最盛期には月に300枚を超える原稿を描く超売れっ子作家となった。まさに、劇的な復活を遂げたのである。

  手塚は締切に追われながらも、作品作りには一切の妥協を許さなかった。当時のアシスタントや関係者の証言をもとにまとめられた『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』によれば、限界まで原稿を描き直したり、移動中のタクシーや飛行機の中で原稿を描いたり、出張先の海外から電話でコマ割りを指示したりなど、超人的な手法で仕事をこなしている。

■最期まで“仕事の虫”で“漫画の虫”だった

『ネオ・ファウスト』(手塚プロダクション)

 晩年、手塚は体調を崩すことが多くなり、1988(昭和63)年には入退院を繰り返した。しかし、その間も連載は続行され、病床でアシスタントに指示を出しながら漫画を描き続けている。

 昭和天皇が崩御し、元号が平成に変わった1989(平成元)年2月9日。手塚は60歳という若さでこの世を去った。連載中だった『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』の3本と、構想中だった『火の鳥』などの漫画が絶筆となっている。また、4月からはテレビアニメ『青いブリンク』の放送を目前にしていた。

 手塚の最期の言葉として語られるのが、「仕事をさせてくれ」である。病床で書き留めた日記には新しい作品のアイディアが記されていたほど、漫画への情熱は最期まで尽きることがなかった。

 1928(昭和3)年に生まれた手塚は、戦後、敗戦に打ちひしがれていた子どもたちを勇気づけ、SFや科学をテーマにした作品で未来への希望を与えた。高度成長の時流に乗って、日本初のテレビアニメーションの制作など数々の金字塔を打ち立てた。

 そして、寝る間も惜しんで漫画を描き続ける“漫画の虫”であり、“仕事の虫”であった。信念をもち、一心不乱に仕事に打ち込む姿は、当時理想とされた男の生き様そのものといえよう。そういった点でも、手塚は昭和を代表する漫画家であるとともに、昭和という時代を象徴する人物と言っていいだろう。

 

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