菊地成孔 × 福尾匠「音楽と哲学の憂鬱と官能」対談 音楽と哲学それぞれの“引用”について

菊地成孔×福尾匠:音楽と哲学の憂鬱と官能

 哲学研究者・福尾匠氏と音楽家・菊地成孔氏の対談イベント「音楽と哲学の憂鬱と官能」が8月9日にジュンク堂書店池袋本店で開催された。

 福尾氏が博士論文を元に刊行した新刊『非美学 ジル・ドゥルーズの言葉と物』は、哲学と芸術の関係を論じたドゥルーズ論=批評論。一方、対談本『たのしむ知識 菊地成孔と大谷能生の雑な教養』(毎日新聞出版刊)を刊行した菊地氏は、これまでに映画、文芸、精神分析など幅広い領域をジャンル横断的に論じてきた。音楽活動においては、レヴィ=ストロース、スーザン・ソンタグ、浅田彰などの思想家の言葉を引用したタイトルの作品を発表している。

 二人は今回が初めての対面とのこと。体調を崩してしまったという菊地氏は遅れて登場したため、壇上で初めて言葉を交わすことに。福尾氏の新刊の話題を起点に、哲学者と芸術家の関係性について語り合った。(篠原諄也)

芸術と音楽が盗用・サンプリングし合うこと

左、菊地成孔。右、福尾匠。

菊地:このたびはありがとうございます。僕のようなドゥルーズの専門外、というか、他のことはともかく、哲学だけは全くやらないという人間を呼んでもらって。東浩紀さんのように哲学者を超えたスターのような方とはお話をする機会もあります。でも現職の哲学者の方、いや現職の哲学者というのもどうかと思いますが、とにかくそういう方にオファーをいただくとは思いませんでした。

福尾:菊地さんとは河出書房新社の担当編集者が一緒で。今回、トークイベントの対談相手の希望者を聞かれて、ぜひ菊地成孔さんでお願いしたいと話したんです。

 僕が大学に入ったときに同時に「粋な夜電波」が始まって、僕はそれを「第三次性徴期」と勝手に呼んでいるんですが、ジャズやヒップホップなど、菊地さんご自身の作品も含め音楽の趣味が大きく広がりました。それからご著書も読むようになって、批評・評論の書き手としても強く影響を受けていると思います。

菊地:光栄ですね。ありがたいというか、こそばゆいような感じですけどね。

福尾:正直、『非美学』はめちゃめちゃ堅い内容の本ですし、誰でも読めますよとお勧めできるわけではありません。とはいえ、この本は大きくいうと、哲学者と芸術家の関係を扱っています。哲学者は芸術家を理解していないし、芸術家は哲学者を理解していない。でも、理解はないけど影響はある。それでいいじゃんと。一言で言うとそれだけの内容の本なんですね。

 もうちょっと詳しく言うと、哲学はしばしば芸術作品について、いろいろ言うわけです。芸術とは何かといったことを大上段に語る。でも芸術家からすればそれは笑止千万な横暴で、芸術のこと、とりわけそのテクニカルな側面を全然わかっていないということがあるかもしれない。もちろん芸術家の人にとっては、文句を言う権利はあるわけです。でも哲学者の勝手さが絶対にダメで、芸術家の言うとおりに芸術を理解しないといけない、というわけでもないと思う。それでは本当に詳しい人だけが語ることを許された、とても狭苦しい世界になってしまいます。哲学が芸術を勝手に使ったり、あるいは反対に芸術家が哲学を勝手に使ったりする余地はどのように確保できるか。勝手に一方的に盗んで使ってしまう、そのサンプリング的な盗用をどのように考えるかを論じました。

 それこそ、菊地さんは浅田彰の『構造と力』を自身のアルバムタイトルに使っていますね。これもある種のサンプリングで、お互い自分が理解してほしいような仕方では理解していないんだけど、でも一緒に並ぶことはできる。つまり、同時代でひとつの文化の中に属している。そのことの豊かさについてあらためて考えられるといいなと思いました。

菊地:音楽家の立場から、哲学だけじゃなくてあらゆる学問、極端に言ったら書誌学的なすべてを引用することがありますね。ドゥルーズに『シネマ』という本もあるわけで、映画のタイトルから引用することだってある。今、盗用という言葉が出ましたが、それは福尾さんの本にもあったように、権利という概念があるからこそ盗用という概念が発生する。

 一番綺麗に言うと「インターテクスチュアリティ」と言われます。ゴダールを解説するインテリの人たちが二言目に言うような言葉です(笑)。でも、僕にとってはそういうイメージもなくて、単にコラージュの素材なんですよ。古本屋で見つけた雑誌にかっこいい写真があったから、貼り付けてコラージュにしてみようと。

 そういうことをやっているだけなんです。「そこらにあるものならなんでも使う」という意味ではブリコラージュのようですが、コラージュ概念だけに絞れば、パピエ・コレやシンプルにサンプリング概念など、コラージュのいろいろな種類はここでは掘り下げないとして。とりあえず僕が言いたいのは、どなたもコラージュしていると思うんですよね。

 定義を拡大して喋ってしまえば、コンビニで買ってきた食べ物に、冷蔵庫の中の食材を少し足したらコラージュですよね。そこで食べ物じゃないもの、たとえばミニカーを載っけたらもっとすごいコラージュ。くら寿司に行くと、本当にミニカーが載ってるわけですけど(笑)。

 要するに、僕にとってはすべての引用はコラージュだと思っていて。ただコラージュには階層がある。まったく意味はわからないんだけど貼ってみたという場合と、そのテキストに対する知見があってわかったうえであえて貼るという場合があります。「こうやって誤解や拡大解釈、駄洒落のようにしているのだが伝わるかな?」とか。遊戯的というか。

 ところで僕は今61歳ですけども、東浩紀さんは50代前半、宮台真司さんが僕と同世代、千葉雅也さんが40代中盤かな。福尾先生はおいくつですか。

福尾:32歳ですね。

菊地:そうなんですね。世代論もどうかと思うんですけど、僕らの世代はぎりぎりニューアカデミズムという徒花の狂い咲きを経験しました。戦後日本のユースの中ではニューアカ、そしてバブル経済という2つの徒花を経験した世代。バブルとニューアカは同時だったし、もっというと同義と言ってもいい。「一生を左右する、とても良い経験だった」と言えます。

福尾:菊地さんは80年代に20代を過ごしていますよね。それがどういう経験なのか、まったく想像がつかないです。僕の20代は2010年代なので……(笑)

菊地:1983年が僕の20歳でした。83年はCD(コンパクト・ディスク)ができた年で、音楽にMIDI(Musical Instruments Digital Interface)という打ち込み音楽の礎が最初にできた年。ちなみに東京ディズニーランドができたのも83年でした。

 そんな1983年に浅田さんの『構造と力』が刊行された。中沢新一さんの『チベットのモーツァルト』も話題になっていて、本屋さんで竜虎相まみえるような感じで平積みされていました。我々はこれはハイプだなと思って見ていました。このハイプの嵐が去って、一つの荒野が来た時に、ちゃんとした人がゼロから立ち上げるに違いない、と。いたずらに次の世代に期待するような形で、俺たちはハイプに乗るのだと思った。特に僕は流行現象が好きだったので、ハイプが来たら一番上まで乗ろうという感じではありました。だからバブルもニューアカもたいそう熱心に食ってしまうことで、自分の青春時代が形成されました。そうした人間が後に音楽家になって、『構造と力』というアルバムを出すことになったわけです。

 でも浅田さんと初めて会ったのはずっと後で、今から3年ぐらい前なんですね。京都の伝説のイタリアンで料亭の吉田屋さんという店があって、もう閉店してしまったんですが、京都に来た学者や文化人はみんなが来るような場所でした。ライブが終わってそこに一人で行ったら、浅田先生と柄谷行人先生が飯を食っていて、三島由紀夫の話をしてるんですよ。すごいなと思って。京都って美味しいご飯屋さんに行くと、浅田彰と柄谷行人が三島の話してるんだ! と(笑)。

 それでも言えずに(笑)、こっそりとカウンターで一人飯を食ってたんですが、昨年暮れにゴダールの自死を受けてTFMの特番があり、対談することになりまして、もうさすがに逃げるわけにはいかないと思って、タイトルをお借りしたことをお話しました。浅田先生はああいう方ですから、なんと返されるかと思っていたんですけど、「ああもう、それは(良いですよ)」との京都人らしくもない、下町っ子みたいな返しをされていました。

 それで先日『構造と力』が文庫化された時に、僕の直弟子に当たる……いや全然当たらないんだけど、荘子itと対談したんです。(参考:菊地成孔×荘子it『構造と力』対談 「浅田彰さんはスター性と遅効性を併せ持っていた」)そこで初めて、浅田さんの『構造と力』と僕のアルバムの解釈は適合していないという話をしました。福尾さんのような専門家には釈迦に説法ですが、浅田さんの『構造と力』は簡単にいうと、構造主義があって、構造主義の外に出る。その出た時に力が沸くんだという話ですね。だけど、僕の解釈では構造をエンジンのようなイメージで捉えていて、それが駆動すると力が出ると。あえての誤読のようなことをしたわけです。音楽の引用は、誤解の束です。

 音楽という構造体、特にマシーナリーを剥き出しにしているファンクやジャズなどのジャンルは、エンジンのように、ミュージシャンの汗はガソリンのようにして力を発生させています。それはリズムが発生させたり、メロディーや和音が発生させたり、様々な場合がありますが、特にあのアルバムではポリリズムやクロスリズムなどの新しいリズムの、シンプルな(4小節単位の)構造体を、1曲1曲に対して振り分けて、その新しい構造が力を生んでいくと。でもそれは書物の『構造と力』の本懐からは大きくずれてしまっている。その言語化が荘子itとの対談で初めてできたんですよ。

福尾:うーん、それはめちゃめちゃ微妙な問題ですよね。モノマネ芸人の方がモデルとした人に「モノマネさせていただきます」と了承を得るべきなのかどうかという問題があると思うんですが、それと似た話でもあるのかなと思いました。了承を得るという筋の通し方もあるけれど、お互いが知らんぷりしておく、という筋の通し方もありますよね。

菊地:その時間が遥かに長かったですよね。

福尾:でもたまたまお会いしたので、話さないわけにはいかなかった、と。僕は素朴に、概念の使い方が一般的な理解と全然違ったとしても、結果的に作られた音楽が面白かったらそれでいいじゃん、と思うタイプです。それを細かいところに目鯨を立てて、「哲学がわかってない」とか「音楽がわかってない」という話にしてしまうと、面白いことがやりにくくなってしまいますね。

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