創立70周年の東京創元社が擁する翻訳ミステリの名門レーベル・創元推理文庫の魅力とは? 現役編集者3名に聞く、長い歴史の中で生まれた傑作群
1959年(昭和34年)の創刊以来、翻訳ミステリを中心に多数の名作を世に送り出してきた東京創元社の文庫レーベル【創元推理文庫】。1963年(昭和38年)にはSF部門(現在の創元SF文庫)、1969年(昭和44年)には怪奇と冒険小説部門(現在のホラー&ファンタジー部門)、1985年(昭和60年)にはゲームブック部門を新設するなど、時代のニーズに応えて変化しながら、長年に渡って日本の翻訳文化とミステリ小説の発展を支えてきたレーベルだ。
2024年に東京創元社が70周年を迎えたことを受けて、同レーベルからはアーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』のアニバーサリーカバー版をはじめ、犯人当てミステリの傑作と評されるクリスティン・ペリン『白薔薇殺人事件』、英国ミステリ界の俊英・エヴァ・ドーラン『終着点』、そして『カササギ殺人事件』が大絶賛されたアンソニー・ホロヴィッツの最新刊『死はすぐそばに』など、ミステリファン必読の作品が続々と刊行されている。
リアルサウンド ブックでは、改めて創元推理文庫の歴史とその魅力に迫るべく、現役で同レーベルの編集を担当している宮澤正之氏、佐々木日向子氏、毛見駿介氏にインタビューを行った。聞き手は、文芸評論家の杉江松恋。(編集部)
宮澤「カラー印刷のカバーは日本の出版社の中では非常に早い導入でした」
——創元推理文庫を中心とする東京創元社の刊行物は、現在の翻訳文化を支えている柱の一つですが、いまのような形になるまでの歴史を、若い読者はご存じないかもしれません。編集者の皆さんには、創元推理文庫の翻訳ミステリの来歴をそれぞれの読書体験とからめて教えていただきたいと思います。
宮澤正之(以下、宮澤):創元推理文庫の創刊は昭和34年、1959年です。最初は文庫本体にハトロン紙をかけた状態で売っていましたが、数年後に現在のようなカラー印刷のカバーがかかります。いまでは文庫にカバーがつくのは当たり前ですが、日本の出版社の中では非常に早い導入でした。途中でSF部門が創元SF文庫として枝分かれしまして、1980年代からは日本人作家も扱い始めることになります。私は2004年入社ですが、中学生だった1990年代に、当時好きだった古典本格ジャンルの翻訳ミステリを文庫本で読もうとすると、早川書房さんか東京創元社のほぼ二択でした。そこで創元推理文庫イコール翻訳ミステリの文庫、という認識ができたのがきっかけですね。
佐々木日向子(以下、佐々木):私は2009年に新卒で入社しました。大学生のときから、ミネット・ウォルターズやサラ・ウォーターズの作品を愛読していました。「このミステリーがすごい!」などのミステリ・ランキングで上位にランクインしていた作家だったので、興味を持って手に取りました。ウォルターズは、入社してから自分が新作の編集を担当することになって、とてもびっくりしました(笑)。
毛見駿介(以下、毛見):私は2年前の入社で、この中ではいちばんの新参者です。私が大学生の頃にはもう今の創元推理文庫の流れは出来上がっていて、年間ランキングで1位を獲得し続けた〈フロスト警部〉シリーズは完結しており、2010年代に話題になったドイツのフェルディナント・フォン・シーラッハは文庫で読むことができました。
——ここからは時代を区切って、1990年代、2000年代、2010年代それぞれに翻訳刊行した中から印象深い作品を挙げていただきたいと思います。
宮澤:1990年代からは、ミネット・ウォルターズ『氷の家』(成川裕子訳。1995年刊)を挙げたいですね。当時としては珍しく、まずハードカバー(単行本)で出した作品です。『氷の家』と『女彫刻家』(成川裕子訳。1995年刊)を同じ年に連続刊行したことで話題になり、ウォルターズは年間ベストテンランク入り常連作家となります。もう1冊挙げるとしたらやはりR・D・ウィングフィールド『クリスマスのフロスト』(芹澤恵訳。1994年刊)でしょう。東京創元社が初紹介した作家だと、このふたりは外せません。現在につながる流れということではジル・チャーチルも重要な作家ですね。第1作の『ゴミと罰』(浅羽莢子訳)刊行が1991年でした。創元推理文庫は、いわゆるコージー・ミステリを定期的に出しています。ライトな読み口のものは今に至るまでずっと根強く人気がありますね。あとは1990年代後半からになりますが、他社が単行本でクラシック作品を発掘しだしたのに触発されて、創元推理文庫でも古典作品のリバイバルが始まります。クリスティやカー、クイーンといった大御所ではなく、ヘレン・マクロイなど、過去に翻訳されていたものの当時読めないようになっていた作家の作品を紹介していきました。
——今のお話にありましたウォルターズの『氷の家』『女彫刻家』が出たときに話題になった感じは覚えています。〈ミステリの女王〉ともてはやされました。
佐々木:ウォルターズは本国でもベストセラー作家なので、刊行を続けていくうちに、翻訳権料が結構高くなってしまったそうです。弊社での刊行が難しいという状況になったこともあったそうですが、それでも著者が東京創元社で出し続けてほしい、と言ってくださったそうです。有り難いお言葉ですね。
——2000年代に入るとどうでしょうか。代表的な作家は誰ということになりますか。
佐々木:2000年代はサラ・ウォーターズでしょうか。最初の邦訳作品は『半身』(中村有希訳。2003年刊)です。「このミステリーがすごい! 2004年版」海外編と「週刊文春 2003年傑作ミステリーベスト10」海外部門の両方で1位に輝きました。19世紀の英国を舞台にしていて……とあらすじを詳しく申し上げたいところなのですが、この作品については、何も知らずに読み始めることをお薦めします! わたしも初めて読んだときに、とてつもない衝撃を受けました。創元推理文庫だけでなく、翻訳ミステリ全般を代表する傑作と言えると思います。
宮澤:2002年にジェレミー・ドロンフィールド『飛蝗の農場』(越前敏弥訳)があって、『飛蝗の農場』、ウォーターズの『半身』、『荊の城』(中村有希訳。2004年刊)と3年連続で「このミステリーがすごい!」の1位をいただいたんです。サラ・ウォーターズは当時の主力編集者だった松浦正人さんが最後に担当した作家です。ここから歴史ミステリが立て続けに紹介されるようになりました。この三作は文芸色も強くて、ミステリと主流文学の味を兼ね備えた面白さというのも伝えられたように思います。その流れも今に続いていますね。
——毛見さんはそのころまだ学生ですよね。
毛見:それどころか、小学校に入るか入らないかという時期です(笑)。伝説の松浦さんについては入社してから数々の逸話を耳にしました。
宮澤:私も途中入社なので入れ違いなんですよ。
佐々木:私も在籍はかぶってないです。
——そうですか。ゲラを直すのが何よりも好きという、伝説の編集者でした(笑)。
宮澤:2000年代後半になると北欧ミステリを継続的に刊行するようになります。その少し前から翻訳を出していた、へニング・マンケルの存在は大きかったですね。これだけすごい作家がいるのなら、まだ他にもいるんじゃないか、と北欧地域全体に目が向きました。そうして見つけた中にアイスランドのアーナルデュル・インドリダソンなどがいます。
——マンケルは、最初の1、2冊が出たときはそんなに話題になってないですよね。
佐々木:弊社で最初に刊行したマンケル作品は2001年の『殺人者の顔』(柳沢由実子訳)なので、北欧ブームが始まった時期よりちょっと早かったですね。2009年に早川書房さんがスティーグ・ラーソンの〈ミレニアム〉三部作を出されてから日本で北欧ミステリの人気が高まりました。ただ、それ以前にも『目くらましの道』(柳沢由実子訳。2007年刊)などが高く評価されていました。マンケルは女性読者も多いんです。それにありがたいことに、主人公である刑事ヴァランダーのファンが多く、新作の刊行を待ち望んでくださっている読者の方がたくさんいらっしゃいました。
佐々木「衝撃的な展開に、通勤電車の中で呆然とした」
——次の2010年代は、宮澤さん・佐々木さんはもう入社済みでしたね。
佐々木:最初に名前を挙げたいのはフェルディナント・フォン・シーラッハです。2011年に最初の単行本『犯罪』(酒寄進一訳)を刊行しました。「このミステリーがすごい!」「週刊文春ミステリーベスト10」「『ミステリが読みたい!』でそれぞれ2位にランクインして大きな話題となりました。また、その年度は本屋大賞で翻訳部門が始まった年で、1位に選ばれています。翻訳小説の短篇集が話題になることは珍しいですし、書店員さんに広く読んでもらえたのは嬉しかったです。それからも重版を重ね、本屋大賞の影響力を感じました。
シーラッハをきっかけにドイツ・ミステリの紹介が進みました。2012年には〈刑事オリヴァー&ピア〉シリーズとしてネレ・ノイハウスの『深い疵』(酒寄進一訳)を刊行し、現在10作目まで続いています。今後も、新作をお届けしていく予定です。
宮澤:2010年代後半というと、最大のヒットはアンソニー・ホロヴィッツになるでしょうね。『カササギ殺人事件』(山田蘭訳)が2018年です。
——以前お話を伺った際、ホロヴィッツは海外のエージェントからの売り込みではなくて、編集者が発見したとお聞きしました。
佐々木:そうです。ほかにも、2011年に『忘れられた花園』(青木純子訳)を刊行したケイト・モートンも、海外からの売り込みではなく、担当編集者が見つけて企画に繋げました。そういう本は昔からあって、私の好きなボブ・ラングレー『北壁の死闘』(海津正彦訳。1987年刊)も山好き編集者が山の雑誌の洋書紹介欄で見つけて取り寄せて読んでみたら、電車を乗り越すほど面白かったので企画した、という経緯で出た作品です。
宮澤:ケイト・モートンの作品からは、かなりの長大さでも読ませてしまうお話そのものの魅力、物語性の強さということを改めて認識させられましたね。
佐々木:2010年に、キャロル・オコンネルのノン・シリーズ作品『愛おしい骨』が刊行されたのも強く記憶に残っています。それまでキャシー・マロリー・シリーズの著者、という印象が強かったので。『愛おしい骨』はとても面白いのですが、務台夏子先生の翻訳の素晴らしさも大きな魅力だと思います。最大のヒット作『クリスマスに少女は還る』(1999年刊)は入社してから読みまして、衝撃的な展開に、通勤電車の中で呆然としたことを覚えています。オコンネルも東京創元社にとって大切な作家のひとりですね。
——近年、翻訳ミステリではヤングアダルト出身の作家が注目されています。代表格が2017年に『嘘の木』(児玉敦子訳)が刊行されたフランシス・ハーディングですね。その種を播かれたのはケイト・モートンを出した2010年代初頭ということになるんでしょうか。
佐々木:ヤングアダルト作家で最初に意識的に刊行したのは、バリー・ライガ『さよなら、シリアルキラー』(満園真木訳。2015年刊)でした。そのあたりからヤングアダルト作品も積極的に探すようになりましたし、MWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞のヤングアダルト部門などもチェックするようになった記憶があります。
宮澤:バリー・ライガの後にエリザベス・ウェインの『コードネーム・ヴェリティ』(吉澤康子訳。2017年刊)があって『嘘の木』、さらにホリー・ジャクソンの『自由研究には向かない殺人』(服部京子訳。2021年刊)がヒットするという流れですね。あとはもっと児童向けですけどシヴォーン・ダウド『ロンドン・アイの謎』(越前敏弥訳。2022年刊)のようなものもあります。この鉱脈はうちが早めに見つけておいてよかったです。