シャーロッキアンにとって『名探偵コナン』とは? 『ササッサ谷の怪』編者・北原尚彦インタビュー

『ササッサ谷の怪』北原尚彦インタビュー

 シャーロック・ホームズの産みの親として知られるイギリスのアーサー・コナン・ドイルは、実はジャンルにまたがって作品を発表し続けた作家でもあった。新刊『ササッサ谷の怪-コナン・ドイル奇譚集』(中公文庫)は、その知られざる一面を教えてくれる短篇集である。今回編者を務めた作家の北原尚彦氏にコナン・ドイルについて伺った。ついでに、北原氏のシャーロッキアンとしての毎日はどのようなものかのリサーチも。(杉江松恋)

『名探偵ホームズ』山中峯太郎版が入口

コナン・ドイル『ササッサ谷の怪』(中公文庫)

——今回の『ササッサ谷の怪』は、かつて中央公論社のCノベルスから刊行されていたコナン・ドイルの未邦訳作品集全3巻を北原さんが再編された内容になっています。編纂に当たってはどういう方針で臨まれましたか。

北原尚彦(以下、北原):旧『ササッサ谷の怪』『真夜中の客』『最後の手段』のCノベルス短篇集はThe Unknown Conan Doyle Collected Storiesの全訳なのですが、今読むとやや面白みに欠けるものも入っていたんです。それを落として、良いものから順にセレクトしていったらということですね。旧版が出た1982~83年頃、私はまだ原書は読んでいなかったので、邦訳をありがたく手に取ったものです。

——そのときにはすでにシャーロッキアン、つまりシャーロック・ホームズの研究や正典鑑賞をする愛好家ではあったんですね。身近にシャーロッキアンがいるという人はあまり読者にいらっしゃらないと思うので、参考までに北原さんがそうなられた経緯を教えていただきたいです。

北原:我々の世代は、ポプラ社から出てた『名探偵ホームズ』山中峯太郎版が入口だと思います。

——忠実な翻訳というより、内容に踏み込んだ大胆な翻案が含まれる全集ですね。

北原:『怪盗の宝』という、『四つの署名』の翻案を読んで、最初におもしろいなと思ったんです。でも、似た装丁なもので間違えて、次に『怪盗対名探偵』を読んでしまったんです。それはドイルじゃなくて、モーリス・ルブランの『ルパン対ホームズ』なんです。小学校のときは、なんか違う、と思ってそこで止まっちゃったんですけど、中学に入って大人向けの文庫本を読むようになったとき、家にたまたま講談社文庫の『シャーロックホームズの冒険』があったんですね。それはおもしろくて、続けて読もうと。そこから創元推理文庫(阿部知二訳)で読み始めて、最後の1冊だけは入っていなかったのでポケミスで読みました。長篇と短篇集合わせても9冊しかないから、そこからどうしたらいいだろうか、となる。本屋に行ったら、シャーロック・ホームズの研究書とか、他の作家が書いたパロディとか、ホームズ以外のコナン・ドイル作品とかがあったんですね。あ、こっちに手を伸ばせばいいのか、と気づいて、現在に至る、という感じです。

北原尚彦氏

——なるほど。正典を読んだ後で二次創作とか研究書に行かない人もいると思うんです。北原さんが行かれたきっかけの本は何だったんでしょうか。

北原:エラリー・クイーンの『恐怖の研究』(現・ハヤカワ・ミステリ文庫)を割と早くに読んだと思います。内容は要するに〈シャーロック・ホームズ対切り裂きジャック〉の二次創作です。あとはコナン・ドイルの息子のアドリアン・コナン・ドイルとミステリ作家のジョン・ディクスン・カーが共作した『シャーロックホームズの功績』(ハヤカワ・ミステリ)という、なるべく正典そっくりに書いたパスティーシュとかでしょうか。こういうものを順に読んでいけば自分の中のシャーロック・ホームズはいつまでも終わらないんだ、と思いました。そういうものを読んでいた77年ぐらいにちょうど日本シャーロック・ホームズ・クラブというのができて、小林司さんや東山あかねさんの研究書が出てきて、そういう方向性もあるのか、と。私は1981年に青山学院大学に入ったんですけど、同時にホームズ・クラブにも。青山学院大学には推理小説研究会があって、8歳上に翻訳家の日暮雅通さんがいるんです。シャーロッキアンの大先輩ですね。推理研の会報に小説を書くようになって、SFとホームズ・パロディを半々に書いてました。一方でホームズ・パロディの同人誌も作るようになりました。そういうのは全部、自分の文章練習になったと思っています。

——なるほど。のちに、商業原稿でもそれをやられることになるわけですもんね。

北原:やってることが全然変わってない(笑)。

——コナン・ドイルは非常に幅広い作家です。伝奇小説やSF小説、海洋冒険小説にボクシング小説まで、なんでもありです。ホームズ以外のコナン・ドイルまで関心が拡がったのはいつ頃なんですか。

北原:小学校か中学校で『地球さいごの日』(偕成社)を読んでいます。要するに『毒ガス帯』(創元SF文庫)ですよね。チャレンジャー教授シリーズ第1作の『失われた世界』(創元SF文庫)よりも先に読んでいて。その印象が強かったです。後で、「あれもコナン・ドイルだったのか」と思いました。シャーロック・ホームズ以外にも新潮文庫にはドイルの傑作集が入っているんですけど、それも読みましたね。そのときは3冊を残して絶版になっていたんですけど、傑作集は本当は8冊でした。ホームズを読んでいた創元推理文庫の帆船マーク(注:以前は文庫にマークがついていて、冒険小説は帆船だった)には『勇将ジェラールの回想』という歴史小説も入っていて、そういうのからホームズ以外も広げてみるか、と手を伸ばしていきました。

ストランド・マガジンというのは少年ジャンプ

——今回の編纂にあたっては、ドイルの作家としてのどういうところが出るようになればいいと考えましたか。

北原:なるべく多くのジャンルを入れようと思いました。たとえば「死の航海」なんて初読時はよくわからなかったんですけど、今にして思えば、第一次大戦の終わり方が違ってたら、という架空戦記SFなんですよ。いろいろなジャンルを散りばめつつ、全体としてはコナン・ドイルらしさが出せればいいなと思いました。

——ドイルの作家としての幅の広さは、一般読者にはあまり知られていないですよね。

北原:それこそコナン・ドイル自身がずっと悩んでいて、「シャーロック・ホームズの作家」として世の中に見られちゃうのが嫌で、一度辞めてしまうわけです。

——今回の短篇集は年代順の構成ですが、解説ではホームズ以前/以後の区切りを説明しておられますね。ホームズ以前と以降でドイルの作風は変わったと思いますか。

北原:シャーロック・ホームズで花開いたという感じは絶対あると思うんですよ。特に、『シャーロック・ホームズの冒険』収録作は傑作ぞろいなんですけど、あれをストランド・マガジンに月一ペースで書いていたというのは、今から考えると信じられないです。それまでいろいろな作品を書いて、ホームズものの長篇も2本書いて(『緋色の研究』『四つの署名』)、それが結実する形でストランド・マガジンの『冒険』連載が始まったんでしょうね。そこで完全にコナン・ドイルという作家が完成したんだと思うんです。

——収録作を見ると、ドイルは年を経るごとに作風が拡がっていっている感じがします。

北原:そうですね。もともと、怪奇やSF、恋愛要素とか、いろいろなものを書いてはいましたが、それが一気に広がっていった感じです。大衆作家ではあったわけで。文学性よりはおもしろいものを、という書き方はしていたんじゃないかと思うんです。だからなるべくいろいろな要素を入れていったと。これはあくまで推測ですけど。ヴィクトリア朝という時代は識字率が上がって、それまで読書は上流階級のものだったのが労働者階級にも広がっていきました。一方で労働者がすごく増えて、ロンドンの都心に通勤してくるようになるんですね。その通勤中に読む。そうやって読者が拡がったところにストランド・マガジンみたいな雑誌ができて、コナン・ドイルはそこにうまくはまった感じがあります。ストランド・マガジンというのはノンフィクションから、シャーロック・ホームズに代表される探偵小説、こども向けのファンタジーまで、広い年代層に向けた雑誌だったんです。私は「ストランド・マガジンというのは少年ジャンプである」という説を一時唱えていました。少年ジャンプにもいろいろな層に向けた連載があるけど、すべての世代が読む『ドラゴンボール』がシャーロック・ホームズだったと。

——なるほど、今回収録された中には、ドイルが両親の思い出を下敷きにしていると思しき作品もあります。こういう家族小説のようなものを書いているということもあまり知られていないですよね。と思ったら「教区雑誌」という全篇ギャグみたいなものもある。

北原:この話どっち行くの、って思いますよね。かなり晩年なんですが、こんな変でおもしろい作品を、筆の衰えもなく書けていたんです。

——本書を編纂されたことで北原さんもコナン・ドイルという作家を見直す機会になったと思いますが、その作品観が変わったところなどはありますか。

北原:変わったということはありませんでしたが、再認識はしましたね。やっぱり広いし、うまい。最初のころから割とおもしろいもの書いてたし。一般ではシャーロック・ホームズの印象が強いのでコナン・ドイルというとヴィクトリア朝、せいぜいエドワード朝に少し食い込む、くらいに思われているでしょうけど、実は20世紀前半まで存命で、書き続けていたんですよね。1930年代だから、探偵小説の黄金期にもぎりぎり引っかかっている。

——ちょっと質問は変わりますが、もし今からホームズ・パロディを読んでみたいという方がいたら、どの作品をお薦めされますか。

北原:やっぱり『シャーロック・ホームズの功績』でしょうね。あとは封印されていた事件という体で書かれているジューン・トムソン『シャーロック・ホームズの秘密ファイル』(創元推理文庫)、あと、ホームズがいろいろな敵と戦うというものも多いのでさっき言った『恐怖の研究』とか。ローレン・D・エスルマン『シャーロック・ホームズ対ドラキュラ』(河出文庫)、M・W・ウェルマン&W・ウェルマン『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』(創元SF文庫)。戦う相手はとんでもないんですけど、割とよくできてるんですよ。その後はホームズもどきの作品ですよね。おもしろいのがロバート・L・フィッシュ『シュロック・ホームズの冒険』(ハヤカワ・ミステリ文庫)です。ただのドタバタとして読んでもおもしろいんですけど、ホームズ知識が増えてから読むと、さらっと書かれていることに実は意味があることがものすごくわかって楽しめます。初心者向けであり玄人向けでもあります。あとは最近文庫の再刊と続篇が出た松岡圭祐『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』(角川文庫)はいかがでしょう。これは読者が日本人であればこそ最高に楽しめるので、ぜひお薦めしたいです。

——今、北原さんの自宅にはシャーロック・ホームズ棚は何本ぐらいあるんですか。

北原:もう、わからないです(笑)。だいたい蔵書が2万5千冊ぐらいあるらしくて、そのうちホームズとヴィクトリア朝関連を合わせたのが1万冊というところだと思います。私は、ミステリーに関しては途中からホームズとドイルに特化したので、普通の本はあまり持っていないんですよ。

——コナン・ドイルの原著は全部あるんですか。

北原:いろいろな題名で出ていますから全部は追えてないけど、たぶん小説のテキストは全部あるんじゃないのかな。ノンフィクションはないのもあるかもしれないです。

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