菊地成孔×荘子it『構造と力』対談 「浅田彰さんはスター性と遅効性を併せ持っていた」

菊地成孔×荘子it『構造と力』対談

スター性と遅効性が共存している

菊地:DC/PRGで、いきなりタイトルだけをいきなり抜いて『構造と力』というアルバム名にした。もっとシンプルなことをわからせたいということだよね。この本が主張してる「力」とは全く違う、というか、はるか後方にある、構造そのものが産む力のことね。要するにエンジンの馬力を生むようなイメージでしかなかったんだけど。「新しい構造(ここではポリリズム)から、新しい力が生まれる」と誤読して、アカデミズムの人にバカなの? 利口なの? わかんねえや、って思われたかったと同時に、アカデミシャンが音楽について、どれだけ分かってないかもそれで浮き彫になるし。

 オレは世間の流行・風俗を唾棄せずに乗っかるんだよね。この本は難しいのにめちゃめちゃ売れたっていう話自体が、もう楽しくてしょうがなくて。みんなわかんないのに持っているっていう。こんなヤバいことあるのかって感じだよね。

 オレが『構造と力』を出したのは、40歳の時だから刊行からは20年間寝かせていた。音楽のリズム構造を下部構造として組むことで、今までフロアで発生しえなかった力が発生するということの実験だった。誰にも一度も指摘されたことないけど、そもそもピエール・ブーレーズのピアノ曲に「構造I」と「構造II」というのがあるの。51年だよ。構造主義より早い。要するに、音楽は哲学よりも10年早く、「構造」と、軽率に言ってしまっていた。DC/PRGは、ブーレーズが50年代初頭に、「構造」と「言っちゃった」ことに、トラスト&リスペクトしている側面もある。

 だからもう「構造II」以降のナンバリングが6まである、『構造と力』でいいんじゃないかなと思ったのね。ニューアカから引用することに対して、鼻持ちならないと陰性になる人がたくさん出るだろうし、内容聞かずにひれ伏しちゃう人もーーそれこそ、この本が産んだ「力」とまるっきり同じ「力」だけどーーいるだろう、っていうか、DC/PRGのファンは、ブーレーズも浅田彰も関係ないだろうな、関係ない人だけが濾過される濾過装置になると良いなとは思ってたし、実際にそうなった。

 去年の暮れにゴダール追悼をテーマに浅田さんとだいぶ話をしたし、京都のKBSホールで、ペペトルメントアスカラールがゴダール追悼公演をやった時には、いらして下さったよ。「野蛮ですね」という褒め言葉を頂戴したけれども(笑)。

 浅田さんはチャート式参考書のようなつもりで書いたと当時強調していた、でも、断言するけど、読んだ全員が、それはミスティフィカシオンだと思ってたはず。でも文庫化して改めて読むと、これが笑うぐらいわかりやすいんだよね。リアルになっていて、本当にチャート式参考書のようになっている。今の若い人にとってもわかりやすいと思います。世の中にゆっくり浸透してきたということだよね。千葉さんも解説で書いてますけど、なかなか大変な読み物だとはいえ、ある程度の基礎知識や興味があれば現代人なら読み切れるでしょう。昭和は今より単純にバカが多かったよ(笑)。

 世の中がそれだけ変わったことがすごいなあと思ったし、自分の音楽や書籍の属性との相同性も感じた。即効性に対して、遅効性という概念があるでしょ。これは本の一例だけど、フランスのマルキシスト、アンリ・ルフェーブルとか。書いたものが生前はほとんど効果・効力がなかったけれど、死後に評価されるようになった。あるいは、ゴッホは生前は売れなかったけど死んでから売れたとか。そういう遅効性の学者や画家っていうのは、生前に作品を出しているときは評価されない。オレの表現は、それほどロマンティークに遅行的じゃなくて、大体15年ぐらい早く出してるし、書いてる。これはもうしょうがない。この力は、構造の外にあるような気がするけど(笑)。

  だから、浅田さんの著作にも遅効性があった。でも同時に、浅田さんは大スターでピカピカに輝いていて引きがあったんだよ。どんな言葉で説明してもいい。強度でもいいし、キャラ立ちでも何でもいいんだけど、とにかく強みがあって引きがあった。

 だから「訳がわかんないけど、手に取りたくなる」「分かったような気にさせる、なんて生やさしいもんじゃねえ」っていう(笑)。なんか、まばゆ過ぎて目を瞑ってしまうっていうかさ。もちろん、今でもそうですけどね。80年代にはいろんなスターがいたんだけど、普通はスター性自体は遅効性と結びつかない。時代の徒花として結局は消費されて消えていく。だけど『構造と力』は、あとで時限爆弾のように遅効性を発揮していくんだよね。爆発はしないんだけどさ。スター性と遅効性を併せ持つ事例はそんなにないんだけど、浅田さんは間違いなくその一人だと思います。

 オレから見た浅田さんはそうだけれど、荘子itくんくらいの世代の人が、この本を自分史の中でどのように捉えているのかは気になりますね。東さんの本やオレの音楽理論の本とか、もっとポップな本を先に読んでいるわけでしょう。そんな人たちの青春については想像もつかないね。

恥をかきながらフールに実践すること

荘子:今は『構造と力』を誰もが読み解ける状況が整っていると思います。千葉さんの文庫版解説もそうですし、この対談も含め、ネット上にも理解の助けになる解説や考察が沢山ある。そういう意味で新品の輝きはない骨董品です。菊地さんのお話を聞くと、リアルタイム世代とはだいぶ印象が異なるなと思います。でもニューアカのハイプな状況が完全に終わったことで、むしろ、時限爆弾的に仕込まれた核の部分がようやく受け継がれる時代がきたとも言えます。実際、僕は時代の流行と全く無縁に本書と向き合えました。

 僕はDos Monosのデビューアルバムの中の、セロニアス・モンクの『ブリリアント・コーナーズ』をサンプリングした“in 20xx”という曲で「クールよりもフール」とラップしました。ニューアカがハイプだった状況では、浅田さんの議論は幸か不幸か曲解され、ズレようとしてもそれが最先端のかっこよくてクールなものとして受け入れられてしまった。「時代の感性に賭けたい」と言った浅田さんも、それを進んで受け入れた。でも、本当のズレってもっとフール(=馬鹿)で、最初はダサいと思われるようなものじゃないでしょうか。「難しいことは忘れてやろうよ」ってことでもなく、本当にきめ細かくフールになって、道化のフリしたパフォーマンスじゃなく、本気でイタいと思われて自分自身の胸も痛いくらい真顔でやらなくてはいけないんだと思います。

 僕からすれば菊地さんの一番の魅力も、ある意味フールなズレなんです。正確にズレてるというよりは、本当に勢いでズレているところが沢山ある。構造を語るクールさの先で、何かが吹っ切れてフールに転じている。東さんの『存在論的、郵便的』や『構造と力』のラストで、急に理論的記述から外れてトーンがガラッと変わるところは、単純に賢く終わるんじゃなくて最後にフールに転じようとしているんだと思う。文章という形では結局それもパフォーマンスになってしまうのですが。

菊地:それは「構造I」と『キャッチ=22』(ジョセフ・ヘラー)を混同、というか、同ステージに並べて『キャッチ=22』のが荘子くんに適合したっていうことだと思うけど。うーん、「フールにズレる」という件から思うのは、結局、恥の問題よね。今の時代は誰も恥をかくということをしたがらないじゃない。SNSやってる人の合理化と自己正当化のパワーには、皮肉じゃなくて圧倒される。洗脳が完了したイメージ。「恥=死」ぐらいのさ、江戸時代に戻ったの?って思うよ。バブル世代の元気爺さんは(笑)。

 ポール・マッカートニーは、 リトル・リチャードの「のっぽのサリー」を聞いて、ロックンロールを自らもできると思った。すべての羞恥心を捨てれば(笑)。ポール・マッカートニーから金言を引くなんて、バブル世代より遡ってるけど(笑)。

 まあ、恥を捨てるってことだよね。そこにこそ、ものすごいダイナミズムがある。欲望をむき出しにするにもフォームが決まってるから、推し活にも恥はない。どこにも恥はない。

 だから、今から無茶苦茶なことを、無茶苦茶だと自覚した上で言うけど(笑)、『構造と力』以降に音楽家がやらなきゃいけないことは、当世の一流の学者たちに音楽をやらせるってことしかないわけ(笑)。楽器を演奏させたり、歌を歌わせたりして。坂本龍一さんが既に吉本隆明さんに1フィンガー作曲をさせて、それを本に封入していた。あれは坂本龍一が本当にかぶいた事例なんだよね。曲自体は大したことないんだけどさ、やらせたところに凄さがある。ああいうことを真の左翼活動って言うんだよね。

荘子:音楽を始める時って誰でも恥ずかしいですからね。『構造と力』の核心は、「恥をさらしてみろよ」と発破をかけるところかもしれません。それを正統に受け継いだ東さんはゼロ年代に恥を気にかけずに実践するということをやっていました。ものを考えすぎて恥をかけなくなっている人を、恥をかく本当にクリエイティブなことに向かわせる。そういう力がある気がしますね。

菊地:ずいぶん前にDosにトークショーで言ったじゃん。「これからDosにやることがあるとしたら、やらかして赤っ恥かくことだ」って(笑)。

■書籍情報
『構造と力-記号論を超えて』
著者:浅田彰
価格:1,100円
発売日:2023年12月21日
出版社:中央公論新社

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