『幽★遊★白書』は新しい形の「悪」を描いた作品だったーー漫画編集者が実写ドラマ化迫る名作を解説
誤解を恐れずにいわせていただければ、冷戦終結後の1990年代は、「明確な敵」や「明確な悪」が、(少なくとも表面上は)この世から消えた時代であった。
当然、そんな時代にあっては、戦うべき相手を失ってしまったヒーローたちは困惑することになる。たとえば、ハリウッド映画の主人公たちはことごとく自己の内面的な戦いへ向かうようになり、仮に、現実世界に倒すべき敵がいたとしても、それは、正義なのか悪なのかわからない曖昧な存在に変化していた。あるいは、世紀末特有の退廃的なムードも少なからず関係していたのだろう――正義とされる側が立ち向かうのは、いわゆる“巨悪”とはいい難い、殺人の快楽に酔いしれるサイコパスや、個人のエゴをむき出しにしたアウトサイダーたちになっていた(※)。
※もちろんこの手の悪を描いたハリウッド映画は冷戦下でもあっただろうし、隣接する表現ジャンルであるアメリカン・コミックスの世界でも、善と悪の二項対立を疑問視するような作品は描かれていた。私がここでいいたいのは、正義と悪の狭間で苦悩するヒーローや、善とも悪ともつかないヴィラン、そして、個人のエゴに突き動かされた悪役などが90年代以降飛躍的に増えた、ということである。
いずれにせよ、もともと抽象的な存在にすぎない正義を単独で描くことは難しく、それは常に、悪と相対する形でしか表現することはできないのである。そして、(繰り返しになるが)90年代以降のヒーローたちは、悪の概念が1つではなくなった世界で、誰(何)と戦えばいいのかわからなくなったのだ。
「大きな物語」がなくなった時代の悪
このことは、『ポストモダンの条件』などで知られる哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが論じた、「モダン」と「ポストモダン」の特徴と照らし合わせてみれば、よりわかりやすいかもしれない。
「モダン」とは、「大きな物語」が信じられていた時代のことであり、そこでは明確な正義や、不特定多数の人々に共通する理想などが存在する。しかし、さまざまな情報が溢れる「ポストモダン」の時代では、個々の考え(=小さな物語)が優先され、その結果、誰もが信じる正義や理想は存在しにくくなってしまうのだ。
先ほど私は、90年代のハリウッド映画の主人公たちの困惑について書いたが、それと同じようなことが、同時代の日本の少年漫画のヒーローたちについてもいえるだろう。とりわけ、1990年から1994年にかけて、「週刊少年ジャンプ」にて連載された冨樫義博の『幽★遊★白書』は、そうした「ポストモダン」――すなわち、「明確な悪がいなくなった時代」における、正義のヒーローの在り方を問うた先駆的な作品の1つだったといえるのではないだろうか。
勝負師・左京が夢見た混沌とした世界
※以下、『幽★遊★白書』のネタバレあり。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)
冨樫義博の『幽★遊★白書』は、子供を助けようとして交通事故に遭い、幽霊と化してしまった不良中学生の浦飯幽助が、元の体に戻るための試練を経た後、霊界犯罪人を捕まえる「霊界探偵」となって活躍する物語である。
といっても、それはあくまでも物語の序盤の展開であり、単行本の第6巻(ジャンプ・コミックス版)あたりから、彼はそれまでとはまったく次元の異なる戦いへと身を投じていくことになる。
幽助は、頼れる仲間たちとともに、闇の世界の格闘技戦「暗黒武術会」に出場、そこで壮絶なバトルを繰り広げることになるのだが、注目すべきは、この「暗黒武術会編」の黒幕ともいうべき存在――左京だろう。
ちなみにその左京の真の目的は、暗黒武術会の優勝などではなく、人間界と魔界をつなぐ「穴」(界境トンネル)を開通させることである(実はすでに彼は穴を人工的に開ける技術を持っているのだが、それには莫大な費用がかかるため、暗黒武術会の優勝賞金を当てにしている)。
左京はいう。「どんな邪悪な妖怪でも自由に通れる道(トンネル)が維持できたら……この世の中、もっと混沌としておもしろくなりますよ……」(第11巻)と。また、彼が生粋の勝負師(ギャンブラー)であるということも、作中で繰り返し強調されるのだが、こうしたつかみどころのない悪の姿(彼は別に世界征服を企んでいるわけではないのだ)は、それまでの「少年ジャンプ」に登場した強烈なヴィランたち――たとえば、ラオウ(『北斗の拳』)、ディオ(『ジョジョの奇妙な冒険』)、フリーザ(『DRAGON BALL』)(※)といった「明確な敵」とはひと味違うものがあった。
※『DRAGON BALL』と『幽★遊★白書』の連載時期は重なっている部分もあるが、前者の「フリーザ編」は後者の「暗黒武術会編」より先行している。
いずれにせよ、左京にとって最も重要なのは、“おもしろいかどうか”であり、そのためには命を賭けることも辞さないという悪の美学は、極めてポストモダン的であるといえるだろう。
そして、もう1人――『幽★遊★白書』には、仙水忍という名の一筋縄ではいかない悪役が登場する。