『しずかちゃんとパパ』『聴こえない母に訊きにいく』『僕らには僕らの言葉がある』……ろう者との交流が教えてくれること

ろう者との交流が教えてくれること

 ろう者と聴者の交流を描いた作品に『僕らには僕らの言葉がある』(詠里/KADOKAWA)というマンガもある。高校の入学式で指文字(手話の一種)の一覧が配られ、ろう者の相澤が壇上で紹介されるのを見て、野中は最初、「障がい者枠か」と軽んじる。だが相澤が野球部に入ってきて、他の誰よりも自分が求める球を投げてくれると知ったとたん、野中にとっての相澤は〝配慮されるべき障がい者〟ではなく〝バッテリーを組めるかもしれない仲間〟に変わるのだ。

 だから、コミュニケーションをとるため、指文字を覚えようとする。それだけでは不十分で、たとえば相澤が野中に「おはよう」と声をかけるためには、前にまわりこんで顔を見なくてはならない、そのためには走って追いかけなくてはならないことも少なくないのだということを知る。そんなふうに一つずつ、相手のことを知っていけば、自分にできることも見えてくる。他の人とは違うかもしれないけれど、自分たちだけの〝あたりまえ〟をつくって、信頼を深めていくことができるだろう。

 でもそれって、よく考えたら、人間関係の基本じゃないだろうか。どれだけ身近な人でも、自分と何もかもが同じなんてことはないし、お互いのズレを少しずつ調整することを、誰もが無意識に行っているはずだ。どんな特性があろうと、相手を自分とは異なる一個人として尊重し、一緒にいるために必要な努力を重ねていくことが、必要なんじゃないだろうか。

 もちろん、現実は理想ばかりでは語れない。作中では、相澤の母親が、ろう者であるがゆえに、実の両親(相澤の祖父母)に拒絶され、ともに暮らすことができなくなってしまった過去が描かれる(ちなみに母親の物語『私たちが目を澄ますとき、』が講談社『BE・LOVE』で全3回で連載中)。

 今冬には、丸山正樹さんの小説『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』が草彅剛さん主演でドラマ化される。同作でも、とある事件の裏側で、ろう者だけでなくコーダの苦しみや葛藤が描かれている。だがその苦しみや葛藤は、一種類ではない。あたりまえだが、人の数だけ、感情は存在している。だからこそ、さまざまな作品を通じて私たちは知らなくてはならないのだと思う。エッセイとフィクションでは役割が違うかもしれないけれど、事実と希望、その両方に触れることで見えてくるものがきっとあるはずだから。

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