『こっち向いてよ向井くん』が描く、現実としての恋愛 多様な価値観を認めることの難しさ

『こっち向いてよ向井くん』多様な価値観

 “キミを守るよ”

 恋愛モノの漫画やアニメ、映画、小説を見ていると、こんなセリフをよく目にする。いわゆる恋愛モノの常套句だ。

“守るって一体何から?どうやって?守るって何?”

 我々がなんとなく当たり前に受け取っていた「キミを守るよ」に対して、強烈なカウンターとなるこんなセリフから物語が始まるのが『こっち向いてよ向井くん』だ。

 35歳の向井には10年間彼女がいない。10年前にフラれた元カノ・美和子に言われた「守るって何?」というセリフに未だに悩み、美和子への未練を引きずったまま、恋愛や結婚が遠のいていた向井。そんな中、勤め先の派遣社員である中谷を可愛いと思うようになり…。

 『こっち向いてよ向井くん』が描くのは、ロマンスではなく、現実としての恋愛であり現実としての結婚である。主人公の向井は他人の価値観を受け入れることが下手で、コミュニケーションにおける小さな、でも見逃せないようなズレを繰り返す。例えば最新刊の5巻では元カノ、美和子の家父長制に対するトラウマを「よくわかんない父親との確執」と一蹴する。元カノとの関係について「なにもしたくない、ただ一緒にいれればそれでよい」と嘆く。家父長制が一時代前のものとなり、より多様な恋愛の形、婚姻の形が進み、コミュニケーションがより重要な意味を持つ現代社会。そんな中で価値観すらも10年前に取り残されてしまった結果、思い過ごしと勘違いを繰り返す向井の姿は切ないがリアルだ。嫌な奴でも、生活が乱れている訳でも、不快さを感じさせる訳でもないのに、何故か空回りを繰り返す向井。女性、もっと言えば社会との価値観のズレが向井の痛々しさをより強くする。

 そんな“価値観”に翻弄されるのは向井だけではない。向井の義理の弟である元気もまた、自身と婚姻関係にある向井の妹、麻美の考えに戸惑い、悩む。婚姻制度における姓の変更や、周囲による性的役割のステレオタイプ的決めつけ、それもその決めつけは麻美自身ではなく元気に向いている、を受け入れられない麻美と、それはみんながやっていること、フツーのことだと理解しない元気。片方にとっての切実な問題でも、片方にとっては理解のできない事象であることは、この元気、麻美ペアに限らず、現実の世界でも同様だ。一方で本作品は姓変更に肯定的なキャラクターも描かれており、どちらかの視点ではなく両論併記することで、この世界には多面的な価値観が入り混じっているのだと思い起こさせてくれる。

 本作品が描いているのは恋愛や婚姻に関する事象だけではない、本作品の本質とは人対人のコミュニケーションだ。同じく3巻では男性が受けた加害に対する意識の薄さや同性同士のセクシャルハラスメント、年齢でライフスタイルを決定する空気についても描いている。男性が受ける加害については酷いことをされたならば逃げても良いのだと説き、そろそろ嫁を見つけろとなじる向井の上司をキチンと指摘するキャラクターがいて、どんな年齢でも自分のやりたいことをやれば良いのだと進言する。この『こっち向いてよ向井くん』は様々なキャラクターがそれぞれの思い描く幸せを達成するために、悩み、苦しみながらも前へ進んでいく姿が印象的だ。

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