『ぼっち・ざ・ろっく!』を読んで思う「日本人にロックはやれるのか」問題
いささか唐突ではあるが、「日本人にロックはやれるのか」という問題について考えてみたい。むろん、いまの若い人たちにとってはナンセンスな話かもしれないが、ロックが日本に“輸入”されてきた当初は、それなりに切実な問題ではあったのだ。
たとえば、70年代の初頭、プロのミュージシャンたちの間で、「日本語ロック論争」なるものが起こったことがあった。発端は「新宿プレイマップ」および「ニューミュージック・マガジン」に掲載された座談会である。
文字数の関係で、詳細は省くが(興味のある方はネットなどで詳しく調べられたい)、要は、後者の座談会において、内田裕也がはっぴいえんどの「春よ来い」(引いては日本語のロック)は「歌詞とメロディとリズムのバランス」がうまく結びついていないと主張したうえで、そのはっぴいえんどのメンバーである大瀧詠一と松本隆に対して、英語で歌う自分たちをどう思うのかと詰め寄ったところ、松本隆が、「ぼくたちは、人のバンドが英語で歌おうと日本語で歌おうとかまわないと思うし、音楽についても趣味の問題だから……」と答えたという「論争」(?)だ(ただし、この「趣味」という言葉はそのまま受け取らない方がいいだろう。また、松本は、日本語をロックのサウンドに乗せることに苦労していることは認めている)。
現在の音楽業界におけるはっぴいえんどの高い評価を思えば、どうしても内田の方がトンチンカンなことをいっているように見えるかもしれないが(じっさい、かなり感情的になっているのは間違いないのだが……)、彼の主張は彼の主張で、現場の人間ならではの重いものであった、ということだけはここで書いておきたい(たとえば、内田がプロデュースした全曲英語の歌詞によるバンド、フラワー・トラベリン・バンドは海外でも評価されている)。
日本の土壌にロックスピリッツは芽生えるのか
とはいえ、この「論争」については、あくまでも技術的な面での問題にすぎない、という見方もできるだろう。むしろ問題にすべきは、歌詞が何語かよりも、ロッカーとしてのアティチュード(姿勢)――すなわち“ロックスピリッツ”を日本人は持つことができるのか、ということかもしれない。
一般的に、海外のロックミュージシャンは、労働者階級の出身者が多い、とされている。また、60年代末から70年代初頭にかけてのロックシーンには、泥沼化していたベトナム戦争への反抗心が少なからず反映されていた。
つまり、そうした社会情勢や階層意識が生み出す“反骨精神”を、良くも悪くも平和ボケしたいまの日本人の多くは持っているのか、ということだが、誤解を恐れずにいわせていただければ、(学生運動が過熱した60年代の若者たちを唯一の例外として)基本的には持っていない、と考えたほうがいいだろう。
ならば、いまの日本人にはロックをやる資格はないのか。むろん、そんなことはあるまい。では、この国でロックをやる場合、いかなるアティチュードでいればいいのか。その答えらしきものが描かれた、とても可愛いバンド漫画が現在大ヒットしている。
はまじあきの『ぼっち・ざ・ろっく!』だ。
『ぼっち・ざ・ろっく!』で描かれるリアルなバンドの生態
『ぼっち・ざ・ろっく!』の主人公は後藤ひとり(愛称は「ぼっちちゃん」)。“陰キャ”な自分を変えるため、中学時代からエレキギターを始めたものの、高校生になってもあいかわらず孤独な日々を送っていた。
ところがある時、ひょんなことから伊地知虹夏が率いる「結束バンド」に加入することになり、彼女の運命は大きく動き出す――。
私がこの作品を読んでまず興味深く思ったのは、4コマ漫画というフォーマットといわゆる萌え系の絵柄からはちょっと想像しにくい、“バンドマンたちの厳しい現実”が丁寧に描かれているところだった。そう、後藤ひとりが加入した「結束バンド」は、ユルい遊びのバンドではなく、きちんとチケット代のノルマを毎回収めながら、ライブハウスに出演している本気のバンドなのである(ただし、現時点では彼女たちはまだ多くの客を集められないので、ライブハウスでアルバイトをしながら、ノルマ代を稼いでいる)。
にもかかわらず、そんな彼女たち――厳密にいえば、後藤ひとり以外のメンバー3人は、ある辛辣な音楽ライターから「“ガチ”(なバンド)じゃないですよね」と否定されてしまう。この展開もかなりリアルだ。その言葉に発奮した「結束バンド」は、よりいっそう“結束”していくことになるのだが、彼女らがどういう風に成長していくのかをここで書くのはやめておこう。
“ぼっちちゃん”のどこがロックなのか
ただ、逆にいえば、その段階ですでに後藤ひとりだけは“ガチ”なバンドマンとして認められているわけであり、それはつまり、本稿のテーマでいえば、日本人でありながらロックをやれている、ということになるだろう。いったいそれはどういうことなのか。
先ほども書いたように、本質的にロックとは、「反骨の音楽」である。たとえラブ&ピースの精神を前面に押し出していようとも、その根底にあるのは、時代や社会に対して「NO」を突きつけようという強い意志だ。
では、後藤ひとりはどうなのかといえば、マイノリティである彼女は、常に自分の殻を打ち破り、新しい世界へ一歩踏み出そうと努力している。あらためていうまでもなく、何かを壊して何かを生み出そうというのはパンクのやり方であり、そういう意味では、彼女のロック(=ぼっち・ざ・ろっく!)には充分説得力がある、といえるだろう。じっさい、本作に限らず、『DESPERADO』(松本大治)、『BECK』(ハロルド作石)、『デトロイト・メタル・シティ』(若杉公徳)、『ウッドストック』(浅田有皆)など、内向的な若者がロックと出会い、自分と世界を変えていくというバンド漫画は少なくない。
「普通の人生」を歌うこともまたロック
だが、この漫画の本当の凄みはそこにあるのではない、ともいえる。そこで私が注目したいのは、「結束バンド」のリードボーカル兼サイドギター、喜多郁代というキャラクターである。
容姿端麗で明るい性格の彼女は、学校の内でも外でも人気者だが、バンド活動を続けていく中で、ある“壁”にぶつかることになる。彼女はいう。「(自分は)何かが特別秀でてるわけでもないし、ほんとふつーっていうか。(中略)だから私もバンドに入って、頑張ってるつもりだったんだけど…それでも私には何もないのかなって」
これは喜多にとっては切実な“悩み”であるが、じっさい、いまの日本でロックを志している若者の多くも、彼女と同じ「ふつー」の少年少女であるはずなのだ。つまり、平凡な日常から一歩でも遠くへ行こうとして「頑張」ること。あるいは、「何もない」自分を肯定し、“普通の人生”の楽しさを激しいサウンドに乗せて歌うこと。それもある種のロックスピリッツの表われだといえるのではないだろうか。
そう、心に溜まった暗い感情を爆発させる後藤ひとりのギターがロックであるのは間違いないが、それとは正反対のベクトルを持った喜多による“等身大のロック”(=いくよ・ざ・ろっく!)もまた、極めて日本の若者らしいロックだといえるのである。