福嶋亮大 × 樋口恭介が語る、ネットワーク社会における批評家のあり方 「宇宙人とか天使のような視点から書く必要がある」

福嶋亮大 × 樋口恭介が語る、批評の現在地

鏡に映った自分のことを書くという行為

樋口恭介『すべて名もなき未来』(晶文社)

樋口:ところで僕も『すべて名もなき未来』(晶文社)という書評集を出しています。書評はほかの書き物と違って苦しいところが少なく、書いていて純粋に楽しく感じるのですが、福嶋さんはどうでしょう。

福嶋:ふつうの批評は、先ほどの音楽の喩えでいうと多くの楽譜を集めて演奏するみたいな感じですけれど、書評に関しては楽譜があらかじめ与えられていて、あとはそれを垂直的に読み込んでいくことになるから、ある意味で気は楽ですね。あと、書評の場合は一冊の本に向き合うことになるから、いわば「伐採」が少なくて済むんです。だから、吉本隆明が書評を「批評がやる懺悔のようなもの」といったのはよくわかる気がします。

樋口:小説や批評は自分でゼロからアルゴリズムを作って、そこにデータをどんどん放り込んでいって、どんなふうに流れていくのかを観察しながら前に進んでいくようなイメージですが、書評はすでに元となるアルゴリズムがありますからね。ほかの文章より早く書けるし、文章の実験場としても面白い手段だと思います。なにかを書きたいと思っている人は、まず書評から始めてみるのが良いのではないかなと思います。

福嶋:そう思います。僕も大学のライティングの授業では、まず書評の書き方から教えています。ところで樋口さんの書評は、ご自身のお話も積極的に盛り込むスタイルですよね。

樋口:そうですね(笑)。小説を書きたいと言う意識が強いので、小説のためのプロトタイプのようなものとして、書評やエッセイを位置付けているからだと思います。「このまま書き続けたら、ひょっとしたら小説になるんじゃないか」と思いながら常に書いているというか。僕自身は割と古典的なものを読むタイプなので、自分のことを書くのは俗物的で恥ずかしいなとは思うのですが……。

福嶋:僕も自分のことを書くのは恥ずかしいので、この本でも一箇所くらいしか書いていないけれど、最近は自分語りをした方が読者ウケもいいのかもしれませんね。

 ただ、鏡に映った自分を書くという行為は、果たしてどういう意味があるのかと考えます。柄谷行人がむかし鏡と写真を比較していて、鏡が見たい自分を見るナルシシズムを象徴するとしたら、写真は自分の見たくない姿をいきなり曝け出すものであり、つまりは現実的=批評的だということを言っていました。その比較で言えば、今は鏡の時代だと思う。スマホだってみんな手鏡みたいに使うわけでしょう。樋口さんのデビュー作『構造素子』はアルゴリズム的な設定が強くて、むしろふつうの意味での「私」がないような作品だったから、書評でご自身のお話をされているのは興味深かったです。

樋口:僕はそういう書き手で、平野啓一郎さんの言う「分人主義」などに近いかもしれません。それぞれの場に応じて語りを変えているというか、変わってしまうんですね。そしてそれは書き方に限らず僕のリアルな自己認識の感覚でもある。こういう人は多いと思っていて、今後はさらに、メタバースの普及などで分人化はさらに進むでしょうね。分人化された人格同士が互いに影響を与えていくというような現象も増えていくと思います。一方で、分人的な自己認識が前提となった世界では、Aという人格の世界においてはこういう問題があるけれど、Bという人格の世界ではそれは問題ではないので放置しよう、というメタなコミュニケーションやメタな自意識の管理への欲望が出てくるのかなと思っています。

 しかしながら、そういうメタ認知や管理にも限界があって、多くの人はAという人格とBという人格を完全に分けて制御するなんてきっとできないし、Aの問題に引っ張られてBまで衰弱して破綻するということもあり得る。痛みを伴わない情報空間だけで完結していたはずのコミュニケーションのゲームが、本人も予想だにしていなかったはずの形で噴出し、取り返しのつかない傷をつけるというようなことですね。例えばトー横界隈では「こういう文脈で傷つくようなことがあったら自殺するとクールに思われる」みたいな価値観があって、実際に、傍目からは信じられないような軽い理由で若者が自殺するというような事件が起こっている。情報の中で作り上げられた自己像が、実存に不可逆な影響を与えてしまっている事例だと思います。

福嶋:極端にいうと、鏡像と実像の区別がつきにくくなっているんでしょうね。あまりにもあちこちに「鏡的なもの」が張り巡らされているから。それでも、ネットにも「写真的なもの」つまり見たくない自分というものはあって、それはGoogleの検索履歴だと思うんです。SNSは鏡像だから誰に見られても良いけれど、Googleの検索履歴は絶対に誰にも見られたくないという人がほとんどではないか(笑)。その意味では、Google検索は現代の“告白”といえるのかもしれない。

SF文学の可能性

樋口恭介 編『異常論文』(早川書房)

福嶋:樋口さんはSFをどのようなものとして捉えていますか。

樋口:SFは思考実験の文学で、現代的な状況をさらに加速させることで、潜在的になにがあるのかをわかりやすく提示できるところに魅力があると考えています。また、加速した状況を描くことで、自分のメッセージを色濃く与えることもできる。世の中がおかしくなればなるほど書きやすいジャンルなので、社会に不満がある方はぜひSFを書いてほしいと思っています(笑)。例えば純文学であれば、これまでに顧みられなかった人間関係などに改めてスポットを当てたりしますが、まずは現実ありきで書くものだと思います。しかしSFは、そもそも現実に存在しないものを勝手に作って良いジャンルで、それが読者に新しいイメージを与えて、結果的に読者が現実にアクションを起こして社会を変えていく。実際に、SFから生まれた発想やテクノロジーなどは数多く社会に実装されています。そういう機能も面白いところです。

福嶋:小松左京や劉慈欣の作品を読んでいて思うのは、彼らは「宇宙を使ったたとえ話」をしているということです。ある社会のあり方や心のあり方を記述しようとき、SF的な書式を使った方が、ときによりリアリスティックになるケースもあるわけですね。劉慈欣が『三体』で際限なくエスカレートする悪夢的な宇宙を描いたのは、中国が経済的にも技術的にも大きく発展していることと、明らかに関連しています。宇宙的なたとえ話を使えば、ふつうのリアリズムではなかなか表現できないことも表現できる。

樋口:書評集の中で福嶋さんが論じられたミシェル・ウエルベックも、『素粒子』などのSF小説を書いていますが、同作はリアリズムを追求していった結果としてSF的な結末にたどり着かざるを得なかったように思えます。おそらく、現実をより正確に描写しようとして追求していき極限に達すると、どこかで完全な虚構に反転せざるを得ない臨界点のようなものがあるのかなと。僕自身、普通に小説を書いていて、社会のあり方や人間の感情をありのままに描こうとしているうちに、突如としてSFになってしまう瞬間があります。

福嶋:ウエルベックも確かJ・G・バラードやフィリップ・K・ディックを高く評価していたのではなかったかな…。ともあれ、人間を描くためにこそ、人間ではないものを導入するという感じでしょうね。もともと小説というジャンルは、意識や幻想の縁にあるものを貪欲に吸収してきたわけです。例えばモンテスキューの『ペルシア人の手紙』という18世紀頃のよくできた書簡体小説があるんですが、すでに黒人やムスリムの意識が描かれている。ヨーロッパ的自意識の外部とのコンタクトが、小説の起源と言ってもいいぐらいです。SFはその末裔のような形で、人間ではないものを導入しているんだと思いますね。

 いずれにせよ、言葉には本性的に、オンとオフが同時に重ね合わせになっているような状態がある。ものごとを徹底的に突き詰めて考えていくと、これが根拠だと思っているものは消えて無くなっていくんです。SFも含めて、小説の面白さはその根拠の消滅すれすれのところでプレイするところにあると思いますね。

■書籍情報
『書物というウイルス 21世紀思想の前線』
福嶋亮大 著
発売日:10月12日(代官山 蔦屋書店で9月30日より先行発売)
価格:2,750円(税込)
出版社:株式会社blueprint
購入はblueprint book storeにて

【目次】
はじめに─ トランジットの人間
小説の初心に回帰する─ ミシェル・ウエルベック『セロトニン』評
新時代の心の哲学?─ マルクス・ガブリエル『新実存主義』評
平成の「先ぶれ」と昭和の「最後の響き」─ 吉本ばなな『白河夜船』評
ひび割れた物語、とびきりの攻撃性─ 佐藤友哉『水没ピアノ』評
《妻》はどこにいるのか─ 村上春樹/濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』評
《勢》の時代のアモラルな美学─ 劉慈欣『三体』三部作評
インターネットはアートをどう変えるのか? ─ ボリス・グロイス『流れの中で』評
泡の中、泡の外 ─ カズオ・イシグロ『クララとお日さま』評
承認の政治から古典的リベラリズムへ─ フランシス・フクヤマ『アイデンティティ』『リベラリズムとその不満』評
メタバースを生んだアメリカの宗教的情熱─ ニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』評
感覚の気候変動─ 古井由吉『われもまた天に』評
帰属の欲望に介入するアート─ ニコラ・ブリオー『ラディカント』評
共和主義者、儒教に出会う─ マイケル・サンデル他『サンデル教授、中国哲学に出会う』評
胎児という暗がり、妊娠というプロジェクト─ リュック・ボルタンスキー『胎児の条件』評
自己を環境に似せるミメーシス─ ヨーゼフ・ロート『ウクライナ・ロシア紀行』評
実証主義は必要だが十分ではない ─ スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』評
フローの時代の似顔絵─ 多和田葉子『地球にちりばめられて』+村田沙耶香『信仰』評
新しい老年のモデル─ デイヴィッド・ホックニー&マーティン・ゲイフォード『春はまた巡る』評
現代のうるおいのないホームレス状況─ 2022年上半期芥川賞候補作評
おわりに─ 書評的思考

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