帰属の欲望に介入するアート――ニコラ・ブリオー『ラディカント』評
書物という名のウイルス 第8回
帰属の欲望にいかに介入できるか
もっとも、ブリオーの議論は全体的にイメージが先行しており、肝心のオルターモダニティの内実も鮮明に描かれているとは言い難い。それに「ラディカル」と「ラディカント」をそうすっきりと区別できるかも疑問である。そもそも、うつろいゆくものを永遠なるものに割り振るボードレールや、アートの定義を決定不能に追い込むデュシャンは、近代的体験の核がパラドックスにあることを示した作家である。だとすれば、宇宙人のように徹底して根無し草でなければ、むしろラディカル(根源的)にもなれないのではないか……。このような逆説やひねりを欠いた本書は、ブリオー自身が言うように、あくまで「パワーポイント・プレゼンテーション」として読まれるべきだろう。
だとしても、アートが帰属の欲望にいかに介入できるかという本書のテーマは、今こそ喫緊の課題に思える。なぜなら、固定した「根」をもとうとする動きは、『ラディカント』刊行後の10年余りのうちに加速してきたからである。それは多文化主義的なアイデンティティの政治に限らない。
例えば、近年のアートの領域では、SEA(ソーシャリー・エンゲージド・アート)が注目を集めてきた。SEAはブリオーの「関係性の美学」が美術館内の作品の水準にとどまっていることを批判し、むしろアーティストと市民の「社会的協同」を核としてアートを再編しようとする動きである。ひとびとの不和や分断が大きな問題となるなか、アーティストは挑発的な作品を作って自己満足するのではなく、社会やコミュニティの問題を解決するきっかけを提供せねばならないというわけだ。
このような「社会的転回」(クレア・ビショップ)が、アートにとって有望な未来を開くかは定かでない。そもそも、社会的協同がゴールなのであれば、アートを選ぶ必要があるのかという素朴な疑念も拭えない。アートとは即効性の薬ではなく、一人ひとりの受け手の記憶のなかで時間をかけて成長していくものだが、強いエンゲージメント(参与)の要求はその豊かな時差を打ち消しかねないのではないか。だとしても、モダニズム的エリート主義に反発し、富裕層向けのアート市場からも距離を置きながら、ソーシャルなつながりを根源とするSEAが、今後アートの体制に持続的な変化をもたらす可能性はある(ちなみに、SEAの潮流にいち早く加わり、近年は「アフロ民藝」という不思議な企画に取り組むシアスター・ゲイツのような異色の作家もいる)。
他方、この「ソーシャル」への帰属をちょうど反転させるように、人知の及ばない「モノ」への関心も、アートの理論的な水準――「新しい唯物論」や「思弁的実在論」や「人新世」をそのキーワードとする――にすでに定着している。気候変動をはじめとするエコロジカルな危機は、哲学のみならずアートにおいても、人間中心主義への疑念を招き寄せずにはいない。「人間にとっての現実」を解釈するのではなく「現実そのもの」に肉薄せよという新世代の哲学者の指令(古くはレーニンにまで遡る)は、今の少なからぬアーティストにとって、むしろ親しみやすく響くに違いない。李禹煥の主導した「もの派」という先例をもつ日本の美術界では、なおさらそうだろう。
もっとも、モノそのものから考えよという指令に無批判に追随するのも考え物である。精神のふるさとを失った近代人は、ついつい環境に深く根ざしたモノに魅せられ、そのあり方に執着してしまう(※)。しかし、それはそれで、すでに1990年代に問題になったように、「生もの」へのフェティッシュな帰属を招く危険性もあるのではないか。関係の集積である「社会」への傾斜と、関係の彼方にある「物質」への感染は、一見して対照的に思えるが、実はコインの裏表なのかもしれない。
(※)私がここで思い出すのは、覗き穴の向こう側に、陰部をあらわにして草むらに横たわる裸の女(死体を思わせる)を配したデュシャンの遺作である。このミステリアスな作品は、認識の限界ゆえにモノに感染しやすい人間の奇妙な性癖をあぶりだした、狡知に富んだパズルに思える。ここに、素朴な唯物論への戒めを読み取るのは、やりすぎだろうか。
もとより、唯物論の哲学にもさまざまなヴァージョンがある。なかでも『関係性の美学』以来ブリオーがたえず参照するルイ・アルチュセールの論説「出会いの唯物論の地下水脈」は、再評価に値するだろう。アルチュセールはエピクロスやルクレティウスの「クリナーメン」(偏倚)の概念を足場として、微小な偏り、つまり原子どうしの偶然の遭遇こそが世界の本体だと見なした。理性やモノではなく、ズレや偏りこそが世界の起源である――この「出会いの唯物論」のモデルは、後述する宮永愛子や毛利悠子のアートを考えるのにも有効である。