栗原裕一郎×大谷能生×南波一海が語る、音楽批評の現在地 「内容を薦めるのと、好きだから拡散するというのは違う」

『ニッポンの音楽批評』鼎談

音楽自体を語るのがとても難しい状態

南波一海氏

大谷:音楽はCDにせよグッズにせよ、ものを売らなきゃならない商売だから、インターネット以降は結局のところ拡散する=広告になって、ページビューを稼げればいいとなりがちで、批評が成立しにくいですよね。内容を薦めるのと、好きだから拡散するというのは違うんだけれど、そこが混乱してしまうから、音楽自体を語るのがとても難しい状態です。

栗原:「批評家にはなるな」というのがいまのネット世論のコンセンサスだから(笑)。

大谷:たとえばある観光地について批判すると、ネット上では「私が旅行に行って楽しかったことが嘘になるんですか?」というような反応を呼び起こしてしまうんですよね。コンサートにせよ、CDにせよ、人が経験したことをどう位置付けるかに対して、言葉が立ち上がりにくい。

栗原:音楽に限らず、批評や評論は邪悪なノイズになった。それも2010年以降の傾向かな。批評が嫌われ者なのは昔からだけど、かつては「批評は作り手になれなかった奴のルサンチマン」と皮肉を言われる程度だったのが、いまじゃ「俺の楽しみを台無しにする雑音」と積極的に否定されるようになっちゃった。

大谷:この10年くらい、「俺はそれに対して金払ったんだから、その金をもっとプラスにするような言葉をくれ」みたいな感じで、みんながそれを好きじゃないと嫌だという考えの人が多い。

栗原:おれ個人としてはたとえば、自著であるこの『ニッポンの音楽批評』がクソミソに貶されたって別に痛くも痒くもない(笑)。だから、赤の他人の創作物を貶されたからってそのファンが傷つくというのはちょっと理解の及ばないところがある。でも、批判がNGというのは商業メディアも全般にそうなっているから、その風潮がユーザーに及んだということなのかもね。そもそも評論とか批評というのは、世に知られていない、顕在化していない価値を、発見したり作り出したりする機能だったのに、産業側のパブリシティを代弁するのばっかりになってしまった。

大谷:やっている人はいるんだけれどね。2020年代にはいま言ったような問題を含めて「では、こうしましょう」という新しい展開が出てきてくれればいいなと思っています。アイドルに関してもそう。

南波:そういえば先日「クリスチャン・マークレー展」を見に行ったんですよ。展示に「ミクスト・レビューズ」という色々な音楽レビューをコラージュにして日本語に訳したものがあって、そこには音楽批評の言葉が並んでいるんだけれど、読んでいて、うわ……という気持ちになりました。既視感のある言葉しかなかったんです。

大谷:あれ、ずっと壁に並んでるのがいいんだよね。クラシックのやつとかロックのやつが混ざっていて、続けて読んでいくとどこが区切りか分からなくて。

南波:面白かったです。ああいうのをみると、音楽批評の表現って全然変わっていないんだなと。だから自分的には、Tik Tokで新しい世代が本を紹介することも大いにありだと思っていて。凝り固まった作品語りの風通しがよくなる。あれもやっぱり大きくは批評行為の一つなんじゃないかなと思いますし。

栗原:新譜レビューや書評には広告的性格も備わってるじゃない。評論的機能と広告的機能という二面性があるわけだけど、TikTokレビューは広告機能しかない。出版社が総出で「けんご大賞」に乗ったのは、それが産業側に都合のいい批評だからだよね。ユーザーが無償で広告をやってそれがコンテンツになっているというのも、考えてみると不思議な話ですね。

もっと変なぶつかり方ができる場所があればいい

栗原:こないだの「ABEMA Prime」で「サブスクのシャッフルプレイとプレイリストにどう対抗するか?」みたいなテーマの番組があったじゃない。楽曲が個別でしか聴かれなくなってアルバムという概念がなくなり、プレイリスターや音楽コンシェルジュの選曲が影響力を持つようになった。そういう状況に対する批評の動きってなんかあるかな?

大谷:ないね。でも、この本の最後の対談で言ったんですけど、もし2020年代に可能性があるとしたら、90年代後半からあったDJ的な感覚で音楽をチョイスしてプレゼンすることだと思います。タワレコの「bounce」はバイヤー側の視点で「この新譜に合わせるのはこれです」みたいなことを書いていた。それによって歴史がシャッフルされて古今の様々な音楽や文化が接続されてきたんですけど、あれこそ今でいうプレイリスターの視点だと思う。選曲だけに集中していていて、それが結果として批評になっている。

栗原:「bounce」や橋本(徹)さんのやっていることの延長で、柳樂(光隆)とかもいるよね。彼のやっていることも、言ってみればプレイリストを作ることじゃない?

大谷:ジャズという全然プレイリスト化されてない分野を扱って、重要人物にインタビューもして誰もが聴きやすい状況を作ったという点で、柳樂さんの雑誌『Jazz The New Chapter』は批評行為ですよ。

栗原:彼はNoteとかで記事とプレイリストを作って、Apple MusicやSpotifyなどで公開するということをけっこうやっている。柳樂のプレイリストと、サブスク側がレコメンドしてくるプレイリストとには明確に違いがある。

南波:基本的にはプレイリストの作成者が前に出ることはないですよね。それはおそらく、主体を消したほうがいいという判断なんだろうなと。

栗原:それとは別に、署名付きのプレイリスターみたいな人もいるじゃない?

南波:有名人も起用されていますね。

栗原:プレイリストに言葉を絡ませていくというのは難問だよね。

大谷:自分が好きなものを集めてちゃんと並べて、それに「私は音楽をこう思っている」という事がわかるような言説が加えられると面白いと思う。「朝聴くのはこの曲で、なぜならこういう考えがあるからです」とちゃんと言説化が出来るような世の中になれば、まだまだ面白い原稿が出てくると思います。プレイリストと一緒に、それを提示するというやり方はネットとの親和性もあると思う。

南波:最近は音楽媒体でもコラムが増えてきましたね。一時期は「本人のインタビューこそが大事だ」みたいな雰囲気があったけど、それも少しずつ変わってきているのかなと思います。映画批評やテレビ批評などでは、特に評論の面白さを感じることが増えてきた気がします。それに、インタビュー記事はどうしたって綺麗事が多くなってしまいますし。

大谷:もっと変なぶつかり方ができる場所があればいいんですけどね。

栗原:あまり変なことやっているとアクセス数が伸びないんだよ(笑)。

南波:やっぱりそこが大きなポイントですよね。評論も広告の中に組み込まれているから、どうしてもアクセス数が記事の評価につながりがちだけれど、それとどう距離を保ちながら面白い記事を書くかが、ライターの為すべき仕事だと思うんです。

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