『ポーの一族』と「ロマンティックな天気」 ——疾風怒濤からロココ的蛇状曲線へ「マンガとゴシック」第3回

『ポーの一族』と「ロマンティックな天気」

マンガとゴシック

悪魔的「雰囲気」としての霧

 ようやく「マンガとゴシック」連載にふさわしいゴシックの名が出たが、このジャンルは怪奇作家エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」冒頭の、陰鬱な屋敷の描写に顕著なように、ドス黒い沼から噴き出る瘴気や、立ち込める霧といった雰囲気(アトマスフィア)や環境(アンビエンス)が重要となる。ゴシックもまたロマン派同様、曖昧で不確定な気象(メテオール)的要素が大好き、というわけだ——ambience(環境・取り巻くもの)がambiguity(曖昧さ)と同じ語源であることに留意されたい。

 萩尾の場合、吸血鬼に漂う霧のアトマスフィアは、『ポーの一族』の着想源になったという石森章太郎「きりとばらとほしと」から明確に引き継がれたものだ。特に第一部「きり」篇では冒頭に「ふしぎだ/きりの中をあるくのは! 人生とは/孤独であることだ」と(まるでエドガーのモノローグのような)ヘルマン・ヘッセの言葉の引用に始まり、霧と吸血鬼はほとんど一体化して描かれている。

石森や萩尾、そしてその先達としてのロマン派は、サタンを「霧」や「蒸気」に形容したミルトン『失楽園』の描写(※彼は「低く這う黒い霧のように」楽園に侵入した)を引き継いでいるとも言える。悪魔を不確定な霧に結び付けたのと逆に、ミルトンは神をその霧を蒸発させる太陽になぞらえられた。これを踏まえると、なぜ心臓に杭を打たれたバンパネラが「蒸発」するように消えてしまうのか分かろう。

フィギューラ・セルペンティナータ

 ここで「天気」から少女マンガにおける「線」にテーマを引き継いでいくために、アーデン・リードの大変重要かつ示唆に富んだ文章を引用したい。「迷宮の中にいるということは、霧や雲に包まれた風景の中に囚われた状態に似ている。視界は制限され、視点は絶え間なく移り変わり、道は曖昧になり、逃走の試みは直線というより蛇状曲線(serpentine lines)のなかに巻き込まれてしまう。」(66ページ)

 なるほど『ポーの一族』の絵も、植物のようにうねりくねるアラベスクな曲線がときに窒息寸前までコマを覆いつくし、カオス的不定形に至り、読者を直線的なストーリー進行から逸脱させ、迷子にさせる「霧」となっている。大塚英志がアール・ヌーボーから少女マンガに至る植物曲線の影響関係を辿った一冊(『ミュシャから少女まんがへ』)を出しているが、ジャン・クレイの『ロマン派』を繙けばその系譜はさらにロマン派(端的にウィリアム・ブレイク)の渦狂いにまで遡れると分るし、G・R・ホッケの『迷宮としての世界』を繙けば「フィギューラ・セルペンティナータ」といってマニエリスム・アートにまで遡れるものと知れるし、マリオ・プラーツならS字・C字曲線に狂ったロココと言うだろうしで……要するに蛇状曲線という直線嫌悪のヨーロッパ的常数のなかに、『ポーの一族』の描線は位置付けられる(影響関係がどうのこうのを越えて、そうした一貫した精神的傾向があるのだ)。

 というわけで、ロココ装飾を説明したマリオ・プラーツ『ムネモシュネ』(ありな書房)の以下の一節を読みながら、ぜひ萩尾望都マンガを眺めてみて欲しい【図4・5】。

「つまりロココは装飾家たちの発明品なのである。……それは極微(infinitesimio)を志向し、いやましに小さい要素からなり、相互貫入するC曲線やS曲線からなる。その炎のような形態はさらに小さな炎や閃光になり、花のごとき形態は花弁と雌蕊になり、水のような形は滝になり水滴となる。」(『ムネモシュネ』高山宏訳、186ページ)

図4『ポーの一族 復刻版④』(小学館フラワーコミックス、2016年)、121ページ。 リニアなストーリー進行を「脱線」させる曲線と細密。
図5 『ポーの一族 復刻版③』(小学館フラワーコミックス、2016年)、63ページ。 アレグザンダー・ポープの『髪盗み』(1714年)の主題「螺旋為して巻く巻毛」を地で行くような、ロココの世紀全体を要約するフェミニンな曲線美の世界。

 こうして曲線と気象は、炎から花へ、そして滝から水滴へと次々に変容する、その気まぐれで女性的なメタモルフォーシス性から重なり合うのだ。不確定な気象と一体になったバンパネラは、さらに嘔吐寸前の蛇状曲線によって飾ることで、直線的・合理的時間を生きるしかない我々人間を翻弄・幻惑する。戦後日本の高度経済成長を支えた右肩上がりのリニアな進行に待ったをかける、停滞した時間を生きる吸血鬼のデカダンスを描くには、萩尾望都のアラベスクな曲線による「脱線」しかありえなかった——70年代日本思想を体現するマンガである、と言ってよい。

 さて、「アラベスク」と連呼したのは実は布石で、萩尾にさらにゴシックとデカダンスの要素を加味した山岸凉子(さらにこの系譜の先には楠本まきがいる)を、次回は取り扱いたいと思う。

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