『ポーの一族』なぜ時を超えて愛され続ける? 長寿の時代に投げかけるメッセージ
少女マンガが黄金期を迎えて50年、未だに時系列でものが語られない作品はとても少数です。それを、40年以上前にやっているのだから、それもすごい。
バンパネラと言えば不老不死、そのための差別と孤独みたいなことは吸血鬼ものでよく語られるテーマですね。加えて『ポーの一族』には、時を超えて生き続け各所に生きた証を残しているエドガーと、彼を追う人々とのチェイスが描かれます。それはなかなかのスリルです。もし自分が、エドガーに興味を抱いて追いかけたとしたら、そして数百年も前から生きていた人とリアルで会えるかもしれないと思ったら、どれだけ興奮するか! 作品の中で、今、私が最も考えさせられるのはこのシーンです。
医者のクリフォードは、エドガーにこう言います。
「消えろ! おまえたちはなんのためにそこにいる なぜ生きてそこにいるのだ この悪魔!」
それに対してエドガーは、こう思うのです。
「…なぜ生きているのかって…… それがわかれば!」
「創るものもなく 生みだすものもなく」
「うつるつぎの世代にたくす遺産もなく」
「長いときをなぜこうして生きているのか」
私は、恐らく子どもを持たない人生を送るでしょう、そうして思うのは、どう考えても自分はポーの一族未満の存在だなということ。彼らは決して老いず、生き続ける代わりに子どもを得ない。ところが自分ときたら、毎年着実に加齢の症状が悪化するのに「創るものもなく 生みだすものもな」いわけです。
少子化・非婚化が進む今、私と同じような環境の人は少なくないはずですが、さて私たちは「なんのために生まれてきたの」でしょうか。
20代の頃、同じ質問を年上の女性に問いかけられたことがあります。その時は「そんなことは考えたこともない!」と思っていましたが、私は親の支配下に生きていたので、恐らく「親のために生まれさせられた」んだと思います。親が考える「幸せな人生」を私が選択しないといい顔をされないのです。「なぜ生きているのか」に関しては、「死ねないから」です。前向きに「生きたい」と思ったことはなかったから。
夫が働き、妻が家庭を守って子どもを育てるという、いわゆる「伝統的家族」には、歪みが山ほどあると感じます。イクメンが推奨される現代はまた少し違いますが、父親は仕事して飲んで遊んで、結婚前と変わらない生活を送れます。一方で母親は子どものために気軽に飲みにも行けない。自分の人生を犠牲にして育てた子どもに、何の期待もせずにいられるのでしょうか。私の母の場合は、自分の人生を肯定するために、娘たちに自分と同じ道を歩んで欲しかったようです(ところが娘のふたりとも子どもを持ちません)。
私は親と深く繋がれなかったことから、血縁よりも「心の繋がり」や「孤独を埋めるパートナー」を強く求めていました。自分という個性を理解しない親のもとにあって、私を理解し、受け入れてくれる「誰か」を猛烈に欲していたんです。
そうして私は、メリーベルを失ったエドガーや、メリーベルの身代わりであると思い苦しむアランの孤独に強く惹かれたのでした。マイペースで学校生活に馴染めなかったことからも、学園で異質な存在であるエドガーとアランに深く共感しました。
こうした疎外感や孤独感を持つ人は、たくさんいるはずです。だから私たちは時代や種を超えて、エドガーの孤独やアランの焦燥感に大きく胸を打たれるのでしょう。