萩尾望都『トーマの心臓』が少女漫画界に与えた影響 “心の痛み”を描いた名作を再読

萩尾望都『トーマの心臓』の影響

「花の24年組」が与えた影響

 1970年代序盤、「花の24年組」と呼ばれる漫画家たちの登場によって少女漫画の社会的地位は急速に高まった。「花の24年組」は昭和24年前後に生まれた少女漫画家たちのことだ。彼女たちは漫画界に革命を起こした。

  「花の24年組」の顔ぶれは竹宮恵子、山岸凉子、大島弓子などである。当時の漫画家の多くは、漫画だけではなく文学にも親しんでいた。だからこそ新しい分野を開拓し、「少女漫画は幼い子どもが読むもの」という固定観念を変えることができたのではないだろうか。

    例えば竹宮恵子は少女漫画における少年愛を『風と木の詩』という作品で描ききった。『風と木の詩』は編集者たちの「少女たちに受け入れられないのではないか」という懸念から、連載開始まで長い月日を要したそうだが、連載開始後は大ヒットとなり、何十年も経った現在まで少女たちを魅了し続けている。後に「ボーイズラブ」という新しいジャンルが生まれるきっかけにもなった。

 また、山岸凉子は「10代の少女がヒロイン」という少女漫画の当たり前を変えた漫画家である。親の教育によって抑圧された女性が悲劇的な結末を迎える短編『天人唐草』のヒロインは30歳で、当時の少女たちを驚かせたという。

   そんな漫画界に多大な影響を与えた「花の24年組」の代表格の一人が、萩尾望都だ。

愛され続ける萩尾望都作品

『ポーの一族』

    萩尾望都は多くの作品群によって、少女漫画を文学の領域に高めたと言っても過言ではないだろう。その先駆けとなったのが、近年新作が出たりミュージカル化されたりしている『ポーの一族』と、ドイツのギムナジウム(ドイツの中等教育機関)に通う少年たちを描いた『トーマの心臓』である。

    この記事では後者について論じたい。

   『トーマの心臓』は、冬の終わりのある朝、ひとりの少年が陸橋から飛び降りる場面から始まる。転落した少年の名前はトーマ、まだ13歳でギムナジウムの生徒だった。

 翌朝、ギムナジウムはトーマの訃報で騒然となる。そんな中、トーマより1学年上でクラス委員長を務めているユーリことユリスモールにトーマからの手紙が届く。

ユリスモールへ さいごに

これがぼくの愛

これがぼくの心臓の音

きみにはわかっているはず

   ユーリのルームメイトのオスカーはこれは遺書だと指摘し、ユーリは激しく動揺する。ユーリは優秀で信仰心が篤いが、ある秘密を抱え心に深い傷を負っていた。

   そしてそれとは別に、半年前、トーマは同い年の友人アンテと組み、どちらがユーリをくどけるか賭けをしていた。事実を知ったユーリはトーマを冷たくあしらったのだ。

     トーマの自殺後、悪夢を見て呼吸困難にまでなったユーリを、オスカーは落ち着かせようと努力する。彼は一見不良だが、冷静に物事を見ながら気遣いのできる少年だ。

 ただオスカーの慰めの甲斐なく、トーマの死の意味がわからないユーリは混乱し続ける。トーマの墓の前で遺書を破り、彼を忘れようとするが、直後にユーリはトーマと瓜二つの転入生エーリクに出会ってしまう。

 このエーリクこそが、『トーマの心臓』の軸となる少年である。

   トーマはおとなしくて愛らしい、ギムナジウムのアイドルのような存在だった。生徒たちはエーリクを新しいアイドルにしようとするが、エーリクはそれをいやがる。母親に溺愛されて育ったエーリクは、ギムナジウムが初めての集団生活だった。トーマの代わりを求めている生徒たちから可愛がられることは、トーマを知らないエーリクにとっては迷惑でしかない。

   彼がトーマと似ているのは外見だけだったのだ。エーリクは思ったままものを言い、行動する。しかもすぐに暴れる。トーマとのあまりの違いに周囲はびっくりし、転入早々彼は「ル・ベベ(赤ちゃん)」というニックネームをつけられるようになる。

    だが、実はエーリクはただのわがままな少年ではない。とてもカンが良く人の気持ちを自然におもんぱかることができる性格だ。オスカーはいち早くそれを見抜く。トーマはユーリを愛した。ユーリを心配するオスカーもそうだ。心に傷を負ったままのユーリを救いたいと願っている。だがオスカーは、自分にはそれができずジレンマを抱えている。エーリクを知るにつれてオスカーは、彼ならユーリを癒すことができるのではないかと思うようになる。

   トーマにオスカー、やがてはエーリクもユーリを愛するようになる。しかし『トーマの心臓』は少年愛を描いた作品ではない。彼らの愛が恋愛感情なのか、宗教的なものなのか、深い友情から来るものなのか……それは本人たちですらわかっていないのかも知れない。

    ユーリ、オスカー、エーリクがそれぞれ複雑な家庭環境で育っているのも、この物語の要点だ。三人はそれぞれの方法で、自分の生い立ちから自らを解放させていく。終盤でユーリは、過去の事件に縛られている自分の心にも、一つの終着点を見出す。決して長い物語ではない。だがこの三人の登場人物は作中で成長する。契機は紛れもなく序盤のトーマの死だ。

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