講談社はいかにして日本を代表する総合出版社になった? 魚住昭が語る、文化の作り手としての矜持

魚住昭が語る『出版と権力』

 ノンフィクション作家・魚住昭氏による著書『出版と権力 講談社と野間家の一一〇年』は、講談社の未公開資料を紐解き、近代出版150年を彩る多彩な人物群像の中に、創業者一族である野間家の人々を位置づけた圧巻の大河ノンフィクションだ。講談社創業110周年記念出版として刊行された本書は、講談社の光と影をできる限り正確に描きだそうとしており、出版文化史を知るうえで極めて有益な一冊となっている。魚住昭氏に本書を執筆した経緯と、書き進めるなかで見えてきた講談社の精神について、話を聞いた。(編集部)

伝統的に培われた講談社の矜持

著者の魚住昭氏

――『出版と権力 講談社と野間家の一一〇年』は、講談社の110周年を記念した書籍でありながら、その歴史における功罪をジャーナリスティックな視点から、ときに批判的に詳述しているのに驚きました。魚住さんがこれまでに執筆した『渡邉恒雄 メディアと権力』(2000年)や『野中広務 差別と権力』(2004年)に連なる伝記的ノンフィクションであり、後世に残すべき一冊として書かれた大著だと感じています。本書の企画は講談社から依頼があったのでしょうか。改めて、執筆の経緯を教えてください。

魚住:執筆の経緯は少し複雑です。僕は1996年に共同通信を辞めて以降、フリーのジャーナリストとして必死で取材して、『渡邉恒雄 メディアと権力』や『野中広務 差別と権力』といった本を書いてきましたが、2007年に体調を崩しまして、双極性障害を発症しました。双極性障害は現時点で治療法が確立されていない厄介な病で、僕はやむを得ず1年間の休筆宣言をすることになりました。人と話すのがものすごい苦痛になってしまって、あるときは居ても立っても居られないような焦燥感にかられ、またあるときには地の底に引きずり込まれるような抑うつ症状に陥ってしまう。ひどいときは、人と話していると頭が痛くなるようなありさまだから、書くことも取材することもできず、ただ脳を休めるしかない。僕の仕事の一番の特色は、人と直接会って話を聞いてそれを記事化することなので、双極性障害の症状は職業の危機に直結します。周りの人には、なぜ評伝の仕事をしないのかと不思議がられましたし、そうした仕事をすることが自分の書き手としての価値であると自覚はしているものの、できないものはできない。結局、そういう時期は5年間続きました。

 ようやく症状が落ち着いて、しばらく経った2016年の秋に、以前一緒に仕事させてもらっていた講談社『月刊現代』編集長だった渡瀬昌彦さんや担当編集者の方々が飲み会に呼んでくれて、そこで講談社の創業者一族である野間家の人々の歴史を話してくれました。僕は講談社で仕事をすることが多かったけれど、講談社の成り立ちについてはまったく知らなかったので、その話のあまりの面白さにすぐ夢中になりました。

 僕はその頃、人と話をしたりするのは相変わらず苦手ではあったんですけれど、本は読めるようになっていたし、療養中に読んだ『山川均自伝 : ある凡人の記録・その他』(岩波書店/1961年)に大きな感銘を受けていたんです。山川均は、戦前から戦後にかけて活躍した労農派の社会主義者なのですが、この人の知的な誠実さには心を打たれるものがありました。僕の問題意識はそれまで、戦中から戦後にかけての歴史の中にあって、その流れの中で人物を捉えていくという手法を採っていました。渡邉恒雄や野中広務の本もそうです。だけど、山川均の自伝を読んでから、その人と時代の意識をより正確に理解するためには、日本の近代を理解しなければいけないのではないか、近代を理解してはじめて現在起きていることをきちんと説明できるのではないか、という想いが強くなっていったんです。

 野間家の人々の歴史は、そうした問題意識を踏まえた上でも書く意義がある。それに、渡瀬さんはそのとき講談社の役員をされていたので、彼の人脈を通して各所の了解が取れれば、講談社がため込んでいるであろう秘蔵の資料がきっと手に入るに違いないと思ったんです。ノンフィクションは材料がなければ書けませんが、逆にすでに良い材料があれば、対面の取材に頼らずとも良い本が書けます。渡瀬さんが話してくださった講談社の創業者一族の物語を聞いて、その場ですぐに本の構想を描くことができたので、僕に書かせてほしい、良い本にできるはずだと伝えたのを覚えています。渡瀬さんは、最初から僕に書かせようとしてその話をしたのか、それとも僕と話しているうちにその気になったのかはわかりませんけれど、ともあれ、それがこの本を執筆する最初のきっかけです。

――魚住さんが書くとなると、単に「輝かしい社史を描く」という種類のノンフィクションにはならないはずですが、それでもOKが出たところが講談社らしい判断だと思います。

魚住:これは僕の想像ですけれど、渡瀬さんは双極性障害になってしまった不甲斐ない僕に、真っ当な仕事をさせてやろうという気持ちがあったのだと思います。渡瀬さんは『月刊現代』の編集長だったときに、渡邉恒雄や野中広務の連載をさせてくれた方で、僕にとっては育ての恩人です。もちろん、渡瀬さんは僕がどんなものを書くかをよく知っている方なので、講談社の提灯本には絶対にならないことをわかった上でゴーサインを出してくれたはずです。また、講談社第7代社長の野間省伸さんも、すべて承知の上で創業110周年の記念出版として本書を刊行することを許諾してくださったのだと思います。普通、自社を批判する可能性のある書き手の本に便宜を図ったりしないと思うのですが、そこが講談社の奥行きの深さであり、度量の広さなのでしょう。第三者である僕に社の資料をすべて渡して、自由に書いて良いと言ってくださった講談社の決断にはすごく感謝しています。

――この本を読んでいると、講談社が伝統的に培ってきた出版事業への矜持が感じられます。良いことも悪いことも事実は事実として残していこうとする精神は、創業者の野間清治(1878〜1938年)がもともと抱いていたように読めました。

魚住:それはその通りだと思います。講談社の秘蔵資料には、本書でも引用している『講談社の歩んだ五十年』(1959年)を著した際の資料がたくさんあったのですけれど、その取材のほとんどを一手に引き受けた笛木悌治さんという方は、資料を読む限りどうも美談だけを集めようとしていたわけではない。笛木さんは、講談社の少年部の指導者だった方で、若くして『幼年倶楽部』(1925年)の創刊に携わって成功させるなど、清治が掲げた「中等学校に行かなくとも偉くなれる」という信念を最初に体現した編集者でした。清治の熱烈な信奉者で、その精神を色濃く受け継いでいるのですが、だからこそ清治にとって都合の悪い話も全部収録して残しておこうとする一流の取材者としての心構えも持った人だった。講談社が出版社として優れているところは、実はそこにあるのだと僕は考えます。良いところも悪いところもしっかり記録して、歴史や社会に対する責任を果たそうとする出版人としての気概は、笛木さんのみならず、現在の社長の省伸さんや編集担当役員だった渡瀬さんにもある。そうじゃなければ、僕にこのような仕事を任せてはくれなかったでしょう。

「日本の雑誌王」野間清治の発明

――本書の冒頭でも、「日本の雑誌王」の光と影をできるかぎり正確に描きだすことを念頭に置いたと書かれています。改めて、魚住さんが野間清治という人物に抱いた印象を教えてください。

魚住:やはり天才的な事業家だと思います。たまたま東京帝大法科大学の首席書記のポストを得て、講談の名手で演説がうまかったことがきっかけになり、雑誌発行という仕事に携わるようになっていくわけですけれど、おそらく出版業でなくても清治という人は超一流になっていたはずです。そういう資質を持った人で、なんといっても人間的な魅力がすごくあった。若い頃は問題児でいい加減なところも目立つけれど、当時から人使いの天才というか、誰も彼もを魅了するんです。

 戦前の講談社は忠君愛国主義の出版社だと言われていましたが、清治自身は完全に忠君愛国思想の塊だったかというと、実はそうではない部分もたくさんあって、当時の英米の思想にも詳しかった。戦争に対しても、当初は戦禍の拡大を危惧していて、どちらかというと自由主義的な側面のある人だったと思います。晩年、内閣官房参与になってからは、ちょっと方向性が変わっていきますけれど。

――講談の名手だったことから、早くから書き言葉と話し言葉の特性の違いに気付き、『講談倶楽部』(1911年)で書き言葉による「新講談」を掲載するようになったというエピソードも印象的でした。「新講談」はその後の大衆文学の勃興にもつながるため、日本の出版業界や文壇にとってエポックメイキングな発明だったと思います。

魚住:すごく早い時点で、書かれた言葉と語られた言葉の違いに気付いた人ですね。若い頃に親しんだ『八犬伝』の影響が大きくて、語られる言葉の力を知っていたからこそ、講談社の最初の雑誌である演説雑誌『雄弁』(1910)を手がけることにつながった。その後に出版した『講談倶楽部』は、まさに講談の魅力を雑誌で伝えようとするもので、それが中里介山あるいは長谷川伸といった日本の大衆文学の草分け的な存在を生み出していく。当初の『講談倶楽部』には、浪花節も一緒に掲載されていたことから、講談師たちから反発を受けるわけですが、だったら最初から腕の良い記者を集めて無駄のない書き言葉による「新講談」を作ってしまおうとする大胆な発想は、清治らしいものだと言えます。

――「おもしろくてためになる!」「これを読めば大学に行かなくても偉くなれる!」というコンセプトが確立されていったのも、『講談倶楽部』以降ですよね。

魚住:最初の雑誌『雄弁』は、当時の中学生、高等学校生、大学生といった知的エリートを対象に発行して一定の成功を収めましたが、明治43年(1910年)から44年(1911年)にかけての大逆事件で幸徳秋水ら12人が死刑になったのをきっかけに、治安当局の締め付けが厳しくなり、すぐに部数が半減してしまいました。そこが講談社の最初の曲がり角で、清治は講談に目をつけて前述の『講談倶楽部』を発行します。同誌ならちょうど政府が求めていた通俗教育にも利用できるということで、社会的にも商業的にも成功を収めて、「おもしろくてためになる!」「これを読めば大学に行かなくても偉くなれる!」という教養的かつ娯楽性のあるコンセプトは、その後の講談社の礎になっていきました。「おもしろくて、ためになる」というコンセプトは、現在の講談社でも採用されています。

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