大塚英志が語る、日本の大衆文化の通史を描く意義 「はみ出し者こそが権力に吸収されやすい」
「表現した」つもりになって「参加させられている」素人
――このプロジェクトを進めながら、大塚さんが改めて重要だと感じた点は?
大塚:何より、時代区分そのものを問い直してみる、ということです。この本はあくまでチームでの仕事であり、ぼくがアンカーを務めたのは近代後期以降である点を断った上で言えば、ひとつは、近代のはじめを「近世の印刷文化の成立期」から始めていること。明治期には木版から活版に変わったから、表面上は近世と近代で変わっている。でも根本的なメディアのしくみは変わっていない。何を表現したかでなく、その技術や方法、伝達手段から歴史を見ていく。だから近世から近代前期までは「ひとまとまり」に考えた方が筋が通る。
――技術が登場したことによって変化が起こった、ないし、変化が準備された、ということですよね。
大塚:その上で重要視したのは素人、アマチュアという概念を積極的に歴史記述に採り入れている点です。それを大衆像の根幹に置きます。だから「群としての作者」なんです。近世・近代において社会が成熟するなかで江戸時代には「趣味人」、近代では「アマチュア」「素人」というプロフェッショナル(職業)ではないが表現する人が登場してくる。「アマチュア」って大正期には肯定的に使われた創作者を示す語であり、「素人」って戦時下の翼賛体制用語なんですよ、実は。創作してメディアに参画し、自ら情報を発信する素人が常にいたわけです。これは状況としては、現在のSNSで人々が発信しているのとそう変わらない。その中で長い文章を書ける人なら「小説家になろう」で小説を書くかもしれないし、ライターになるかもしれない。そうでない人も様々な言葉を日々発信する。当時、日本が近代をつくっていく過程で「近代的個人」が確立されていく――その象徴がこうした「創作する素人」「書く読者」だとみなされていたのが大正デモクラシーまでの考えです。
ところが関東大震災後の流言飛語によって人びとは踊らされ、朝鮮人の虐殺があった。大正デモクラシーは「市民ひとりひとりが自分の意思で政治的な判断をして投票し、選出された政治家によって議会を運営していく」という前提に立っていた。けれども、そうやって成熟したはずの市民たちが、流言飛語を自ら発信し逸脱行動にさえ出た。では「市民参加」「近代的な人間」とはなんなのか? それは結局「情報発信することで自ら踊らされる」「誰かに動員されながら発信している」存在じゃないか、という話になる。それが「素人」と当時呼ばれました。
――そしてそれを境に、企業と政治が「人々はこうやれば動員できる」ということを改めて発見していきます。
大塚:この本ではだから、関東大震災が近代と現代を分ける大きな歴史区分になっていく。主体的な情報の担い手としてのアマチュアから動員される素人への転換です。昭和初期に経済恐慌は起きたものの、東京では大正モダニズム的な消費社会がむしろ狂い咲く。そして十五年戦争が始まると軍需景気に沸く。そこでアマチュアたちは当初は企業広告に動員され、それを通じて動員の理論が精緻化していく。そしてその理論は戦争が始まるとファシズム、全体主義体制において応用される。広告で「動員の理論」を作りファシズム化に応用したのは同じ顔ぶれです。
大政翼賛会、近衛新体制は大衆に「自分たちが参加している」という意識を持たせるのが大事なのだと気づいていた。そこではアマチュア、素人が「表現した」つもりになって実際は「参加させられている」存在に劇的に変容していく。「素人」で翼賛体制用語なんですよ。重要なのは共通前提としての「世界」を誰かが「管理」するという考え方が昭和に生まれていることです。そしてこの「参加するアマチュア・素人」問題は今日まで線を引ける。
――やや脱線ですが、大塚さんは戦前/戦後という分け方を採用していませんよね。
大塚:これも歴史区分の見直しという考え方の延長です。戦時下のファシズム体制が生んだ文化や生活様式が戦後に継承されたというのが僕の基本的な立場です。「戦前」「戦後」というのはその事実を見えなくする線引きでしかない。しかしそれに定見なく乗っかってきたのが戦後左派の大きな問題でもある。転向・再転向を繰り返した文学者なんかはどうでもいいんだけど、戦後、電通や雑誌メディアなどの中核になっていく人たち、メディア論の担い手たちは、戦時中に大衆操作の理論的な枠組みを作り、動員の実践に中核的に関わっていた。そういうひとたちが戦後の広告戦略をつくり、出版社をつくり、戦後のメディア空間を作っていく。
ただし、戦時中のメディアには新聞・雑誌のような印刷メディアとラジオ、あとはクチコミしかなかった。戦後はそこにテレビが加わり、90年代以降に双方向性的なインターネットが出てきたときに――近代に夢想された「誰もが参加できるメディア」という理念がついに具体化してしまう。つまり戦時下の問題は、現在の問題になりやすい。
戦前・戦後は今に至るまでずっとつながっている話であって「戦後にアメリカから民主主義を持ってきたせいで個人主義・合理主義化が進んで日本の伝統が失われた」とかいう右派の見立てはまったく成立しない。
大政翼賛会の協同主義はたしかに個人主義の否定だけれども、一方で彼らは合理主義を徹底して追求していた。その合理主義はアメリカがもたらしたものではないし、個人主義だって戦後になって急に入ってきたわけではなくて明治期の言文一致運動が「私」「私の悩み」みたいなものを生み出したことに由来する。
ところが、そんなふうにちょっと史料をみればわかることなのに、今でも「戦前/戦後で大きく変わった」という思い込みが左右双方にまかり通っている。戦前と戦後の連続性については歴史を研究している人間にとってはありふれた説でしかない。ただ、学者が学会の外の人に向かってことさら説くことがなかったがために、人々が「戦後」という枠組みを疑うことをしてこなかった。だから長谷川町子は戦時中は“模範的”な翼賛体制一家を描く『翼賛一家大和さん』を描いていた、『サザエさん』はそこから始まってるんだぜ――という具体的な話が必要なわけです。本書では、固有名の選択はそうやってなされます。
「はみ出し者」こそが権力に取り込まれる
――近代以降の大衆は操作可能なものになり、現代ではその傾向がより強まっているというのが本の終盤の議論になっています。
大塚:「世界」と「趣向」モデルの提供者は、近代前期はコモンズ、つまり誰のものでもなかった。しかし翼賛会がこれを管理するという手法を発見し、今ではKADOKAWAのようなプラットフォームに変わっている。「ひとつの共通前提や枠組み(「世界」)をシェアしてそれぞれが互いに味付け(「趣向」)して発信しあう」という手法はプラットフォームに親和的だけど、それがテクノロジーによって具体化し、「参加する大衆」はより管理しやすいものになった。
この本では戦後の有名なテレビ番組をほとんど取り上げていないけれど、しかし『NHKのど自慢』については記述している。なぜか。テレビもまた「視聴者が参加するメディア」を志向していたからです。しかし、遡れば近代文学だって無数の投稿誌が支えていた。つまり、なろう系みたいに素人が投稿して成り上がるしくみ自体は何も新しくない。ただしかつては印刷メディアの限界で、枠が限られていて参加障壁が高かった。ところが今は圧倒的にハードルが低くなった。投稿者を管理するインフラが完成したからです。
つまり関東大震災で衝撃を受けた広告屋や研究者政治家が理論を作り、戦中・戦後に国民を動員し、理論を実践可能なものにし、その流れの先に、投稿サイトやSNSのようなインフラが完成したのが現在なわけです。そのあたりはこの本で確かめてください。
だから最後はこの先に実現してしまう社会はなんなのかという問題につながる。政府がトヨタと組んだりして進めているスマートシティ構想は「人々が個人情報を守ることをあきらめて、企業や国家に明け渡す社会」を目指したものでしょ? あきらめる代わりに治安や利便性は確保される。それは深センなんかで中国政府がやっていることだよ。中国政府を疑わないかぎりは安心で穏やかな生活ができる。国家そのものがプラットフォーム化するわけです。何か問題が起きればAIが解決する。そのなかでかつてヨーロッパから入ってきて日本でも立ち上げられようとした近代的な個人や民主主義はことごとく放棄される。しかし個々人は、自発的に参加して行動しているように感じている。それが参加型社会の究極のかたちですよ。
Twitterにしたってニコニコ動画にしたってそう。プラットフォームはユーザーにタダで投稿させることで広告を回したり、ユーザーの行動を数値化してどこかに売って儲けているんだけど、投稿する側は「搾取されている」「無料で作業させられている」という実感がない。そんなふうにして個々人が「望んでいる」ように見えて、実際にはそのサービス、あるいはこの社会との整合性が高いものを「望まされる」。そして「こんな仕組み自体がおかしい」と枠組みを疑うことさえしたくなくさせるのがポイントです。
――しかし、そこからはみ出る人もいるのでは?
大塚:参加型社会、投票型社会はそういうはみ出す人の誤作動を潰すシステムです。たとえば「なろう」で評価を稼ごうとするなら、マーケティングして読者の要望に答えないといけない。そこでは扇動や炎上はできたとしても、プラットフォームの枠組みからはみ出すものを潰すようなシステムができあがっていると考えているべき。
もうひとつ注意すべきは「はみ出し者」こそが権力に吸収されやすい、ということ。昔から2ちゃんねる周辺で(現・5ちゃんねる)自民党のプロパガンダに協力的な連中がいるのは有名だったけど、その後のニコニコ動画と安倍政権・菅政権だって見なくてもわかるくらいに癒着している――ぼくはKADOKAWAのインサイダーでもあるから余計によくわかるけれども、そこでは「アンダーグラウンドに見えるもの」が実は権力を支えているという構造がある。
これは戦時下において、翼賛会がマイナーでアンダーグラウンドな文化を取り込んでいったことの反復です。たとえば当時、広告は「表現」ではなく職人による単なる「技術」だった。けれども近衛新体制は広告を「技術」から「芸術」に変革しようとしたデザイナーを取り込み、ほかにも写真、映画、漫画、新劇といった新興芸術に近づいていき、古い文化や旧メディアを仮想敵にしていった。そして新興芸術の担い手たちは、国家からマイナーでインディペンデントな自分たちが認められたことによって、メインカルチャーに対するルサンチマンを発散し、籠絡されていった。国策がアニメファンに接近する意味をこういう文脈で考えておく必要がある。「自分たちはマイナーではみ出したものだ」という感覚ほど危ないものはない。インディペンデントでいることはきわめて難しいんだよ。体制が崩壊したあとで「私は違った」と演出するのは簡単だけどね。
――この本の近代以降では、手塚治虫が特権的に扱われていると思いますが、今言ったような「はみ出るものが潰される」話、あるいは「世界」と「趣向」モデルで個別の作家を論じるにあたっての例として、手塚はどう位置づけられますか?
大塚:手塚治虫は例外的な「誤作動」の例です。ただし、手塚の背景には戦時下に狂い咲いた映画理論、アヴァンギャルド理論、プロパガンダの理論が背景にある。そしてそうした戦前的な「世界」と、戦後民主主義という「世界」がぶつかりあうなかで、明治以来もう一回リセットして近代的個人を立ち上げようとしたときに決定的な誤作動が起きた。必然としての誤作動がある。その典型的な例が手塚です。