大塚英志が語る、日本の大衆文化の通史を描く意義 「はみ出し者こそが権力に吸収されやすい」

大塚英志が語る『日本大衆文化史』

「日本らしさ」なるものはフィクションである

――この本は『日本大衆文化史』と題されていますが、読んでも「日本らしさ」みたいなものは見えてきませんでした。たとえば近代的な個人が立ち上がろうとしていたはずのところに動員の理論が整備されて頓挫した、という話ですが、ヨーロッパでもアメリカでもプロパガンダの技術は発達して、近代的な個人であるはずの存在が大衆動員されていますよね。

大塚:だから最初に言ったように「そんなものはないよ」というのが答えです。序に、国策が通史を求める時代はろくなものじゃない、と書いたでしょう。何かまとまった「日本」があると思いたいのはわかるけれど、政治がそれを積極的に進める時代はろくな時代じゃなかったと本文でも具体的に言及している。デリケートな問題だけれど、戦後の「在日コリアン」たちが歌謡曲やプロレスなどで表象した「日本」に注意を促したのも、大衆の「日本」という思い込み自体が「日本」を作るという一例です。

 だから「世界」と「趣向」モデルだって別に日本文化の特質じゃない。そのモデルで記述していける普遍的な現象の偏差、その地域でローカライズして展開したかたちとして「日本文化」は、ある。じゃあそれが「日本らしさ」なのか。

 「日本らしさ」を求めること自体がロマン主義です。存在しない伝統を歴史に求めるというのは典型的なロマン主義です。「なんとからしさ」は自己肯定の語りです。どの国でも「ドイツらしさ」「中国らしさ」なんかをみんな求めていくわけだけど、それは国民国家的な「国」と「個人」を一体化させることによってナショナル・アイデンティティをつくるというやり口ですよ。そうやって「らしさ」を言い出すとありもしない「純粋な日本人」をでっちあげるしかなくなる。

 ぼくは日文研にいて「国際日本学研究」なるものを意識して逆説的にやっているわけだけど、「日本文化」なんていうくくりがいかにフィクションなのかということの証明にぼくは寄与しますよ、という立場です。

多様な通史を求めて

――書き終えて刊行してみて、今の気持ちはいかがですか。

大塚:出版社に売る気がないから広告ひとつまともに出ないし、書店で売っているのを見たことがない。「出しても誰も読まんな」と思っていたらこうして全然想定外のサイトから取材に来てくれて驚いたわけだけど(笑)、ただ一つの立場は示し得たと思います。そう言う責任は果たせた。

 たったひとつの歴史だけが求められるのはろくな時代じゃないわけです。右の人たちには、ナショナリズム的な信条を汲んだものを百田さんが示した。けれども左の人たちはマルクス主義の衰退以降、見通しが立てられていない。だけど右派だって百田さんのものだけでいいはずがない。

 それに対してこっちは文化史だけれど「あなたたちとは違う見通しができましたよ」と言えるものができた。本当はこういうものがたくさん出てくるのが歴史なんだよということです。百田さんが正しいか、こっちが正しいかという二択じゃなくて、多様な人たちが歴史をつくるなかでそれぞれの歴史の見方が精緻化していく。

 そういう多様な歴史のひとつとして、最近の歴史学者がやってこなかった「見通し」を持ったものを書けたかなという自負はあります。その上で、末尾では「どうすんの? ここから先はあなたたちの問題でしょう」と皮肉っぽくまとめたけれどね。

 つまり次の世代に向けてこれまでの問題を整理し「あなたたちの問題」に繋ぐためにも「通史」はあると言うことです。通史もその程度には役にたつ。

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