『うしおととら』が“熱い漫画”と評される理由 「普通の人間が怪異に勝つ」ことのおもしろさ
藤田和日郎の漫画には、本来は悪役として描かれるような“ワル”が人助けをしたり、時代遅れになった旧タイプがど根性でニュータイプに勝ったりすることで生まれる“意外性”のおもしろさがある。そして、もうひとつ。「普通の人間が怪異に勝つ」という、従来のホラー漫画ではあまり描かれることのなかった独自の展開が、彼の作品を熱く、おもしろくしているのは間違いないだろう。
たとえば、『漫画家本vol.1 藤田和日郎本』(小学館)に掲載されているロングインタビューで、藤田自身こう語っている。
高橋先生の漫画はすべて好きですが、「闇をかけるまざなし」という短編が特にすごくて。「なんだ、普通の人間が怪異に勝つ話を描いてもいいんだ!」って、まさに目から鱗でした。
『聊斎志異』や『遠野物語』を好きで読んでいたけど、結局人間が怪異に負けるような話が多い。だから高橋先生の漫画を読んで受けた衝撃は、今、自分で漫画を描くすべての基本になっています。
ここでいう「高橋先生」とはもちろん高橋留美子のことだが、たしかに、それまでの(というかおそらくは現在でも)多くのホラー漫画において、「普通の人間」はたいてい怪異の犠牲になるだけで、それに勝てるのは常に、異能を持った選ばれしヒーロー(ヒロイン)だけだった。だが、(「闇をかけるまなざし」をはじめとした高橋のホラー短編群に“啓示”を受けた)藤田の漫画では、その“縛り”が基本的にはないのである。さすがに主人公には怪異と対抗しうる異能(もしくは魔性の武器)を持ったキャラクターを立てている場合が少なくないが、かといって、「魔物を退治できるのはその選ばれしヒーローだけではない」というふうに物語世界を設定しているのだ。
つまり、藤田の漫画では、超自然的な力を持ったヒーローだけでなく、場合によっては、主人公を支える「普通の人たちのがんばり」が怪異を倒すことがあり、誤解を恐れずにいわせてもらえば、そういう展開が時おり物語に挿入されるからこそ、彼の漫画は、ほかの数多くの異能バトル漫画よりも、“人の血が通った作品”になっているのだとは考えられないだろうか。
さて、そんな「怪異と対決する普通の人たちのがんばり」がもっとも頻繁に出てくる藤田作品は何かといえば、それは、長編デビュー作の『うしおととら』をおいてほかにはあるまい。
『うしおととら』は、1990年から1996年まで『週刊少年サンデー』で連載された妖怪バトル漫画の金字塔である。主人公は、中学生の蒼月潮。古い寺のひとり息子である彼は、ある時、家の敷地内にある蔵の地下で、禍々しい形の槍に体を貫かれた妖怪(のちの「とら」)の存在を知る。「獣の槍」というその槍は、魔性の者を滅ぼすことのできる伝説の武器であり、500年のあいだ、この、かつて人々を震撼させた悪しき妖怪の動きを封じていたのだった。
結果的に、潮は、とらの“妖気”が解き放たれたために呼び寄せられた「魚妖」(深海魚のような形をした小さな妖怪)の群れを退治するために、「獣の槍」を抜いて、とらを自由にする。とともに、彼の体にも変化が起き、「獣の槍」を手にした潮の髪の毛はいきなり伸びて目は狂気を帯び、槍の使い手にふさわしい “異能者”になるのだった(※)。
(※)本来は「悪」の妖怪であるはずのとらだったが、自由の身になっても、潮が「獣の槍」の使い手となったために、彼の命令には逆らえない。そういうこともあり、最初は反発し合っていたふたりだったが、最終的には「二体で一体」といわれるほどの名コンビになる。なお、「とら」というのは魚妖退治後に潮がつけた愛称であり、かつての名は「長飛丸」である。
物語は、この魚妖の群れや何体かの妖怪との戦いが描かれたのち、やがて、海中に封じ込められている異国の大妖怪「白面の者」の存在が明らかになり、潮ととらのふたりは、様々な異能者や、味方になってくれた日本の妖怪、そして、行く先々で出会った「普通の人々」とともに、「白面の者」との壮絶な死闘に身を投じていくのだった……。
ちなみに、同作におけるその「普通の人々」の力について、もっともわかりやすい例がふたつほどあるので、本稿では以下にそれを紹介したいと思う。