小田嶋隆×武田砂鉄が語る、Twitter論  “オールドメディア”はどうあるべきか?

小田嶋隆×武田砂鉄が語る、Twitter論  “オールドメディア”はどうあるべきか?

ツイッター登場前からあった140文字との相性の良さとクソリプ耐性

武田:ツイッターぐらいの文字数って、いちばん難しいですよね。編集者をやってたとき、文庫のカバー裏に内容紹介を書くことがあって、これが確か200字ぐらい。これくらいの文字数で、手にとってもらうための言葉を並べるのってすごく難しい。

小田嶋:あれ、上手下手というよりも好き嫌いなんだよね。オレ昔っからキャプションが大好きで、雑誌の編集部で「小田嶋さんキャプションつけてよ」って言われるとタダでつけてたんです。もっと遡れば、中学校のとき、遠足とかの写真が注文用にクラスの後ろに貼られるでしょ。あれに何か一言つける作業を誰にも頼まれてないのにやってたんです。誰かふたりが歩いてる写真に、一コマ漫画みたいな「~~なふたり」とか、クラスの写真ぜんぶにキャプションをつけてたんですよ。

武田:短い言葉で全てをひっくりかえすみたいなことが好きなんですね。

小田嶋:そうそう。ちっちゃいオチをつけて、それを笑ってもらえたらうれしいなってことは、子供のころからずっとやってました。

――じゃあ、ツイッターの登場はちょうどいいツールが出てきたという感じで?

小田嶋:ツイッターを「ああ、これは面白いものだなあ」と思ったのは、そういう人だったからということですよ。本にするとか、儲けるとかいうことはまったく考えてなかったですから。

武田:「あ、中学校のときにやってたアレじゃん」ってサイズ感だったわけですね。

小田嶋:で、ときどき反響がかえってくるのがまたね。クソリプもそんなに嫌いじゃないですから(笑)。

武田:クソリプが嫌いじゃないって言う人はほんと珍しいですよね(笑)。

小田嶋:クソリプ耐性の高さはこの業界でやっていく必須の条件ですよ。私がちょうど80年代のライターのブームで出てきた頃、同じような立場で実際文章の上手い人とか、着眼の鋭い人とかたくさんいたんだけど、みんなふーっと消えてったんです。それは、どちらかというと文章の問題じゃなくて、耐性の問題で、文章の上手い人とかセンシティブな人って、クソリプに弱くてやめちゃうんですよ。ただ、別にやめてダメになったわけじゃなくて、もっといい位置に行ってたりするんですけどね。

メディアは高飛車に物を言うことも必要

武田:それこそ、80年代から小田嶋さんのコラムや文章を読んでる人には「小田嶋さんってのはコミカルで、時にシニカルな、面白いエッセイを書くタイプの人だったのに、最近じゃ、政権批判や社会事象にかなりダイレクトに突っ込んでいく人になっちゃったね」という言い方をする人も多いですよね。

小田嶋:そうそう。昔のものを読んでた人が言うときもあるし、読んでないくせにそういうこと言うやつもいるんですけど。80年代、90年代のイメージだと、不謹慎な酔っ払いのちょっと危ない人だったわけで、その芸風がなぜか上から物を言う説教おじさんみたいなことになってることに違和感を持つ人はいますよね。これは私のせいじゃなくて世の中のせいだと思ってるんですけど。

武田:今これだけいろんな政治的な問題、社会的な問題が転がっているなかで、小田嶋さんにいろんな新聞社がコメントを求めるっていうのは、引き続き、コミカル要員というか、面白おかしく言ってもらいたいという面もあるんじゃないですかね。

小田嶋:1個だけちっちゃいオチがついてるぐらいのコメントが、新聞社あたりではうれしいんだと思うんですよ。でも、新聞がほんとうのメタなメディアだった時代は、自前の文責で新聞記者が自分で書いてたんです。その危険を負担したくないから、いわゆる外部の有識者になんか言わせる。その役割に私は組み込まれてるんだと思うんです。「お前にスリッパ貸してやるから、あいつのうしろ、安倍さんの後頭部叩いてこいよ」という鉄砲玉みたいな役割をさせられてる気分はありますよね。

武田:とはいえ小田嶋さん、そのスリッパをちゃんと持って叩きにいきますよね、ちゃんと(笑)。

小田嶋:行きますよ(笑)。

――SNSがどんどん台頭していくなかで、いわゆるオールドメディアが変わってしまったっていう点はありますか。

小田嶋:オールドメディアがやってること自体はそんな変わってないと思うんですよ。記事の質がある程度は落ちてる部分がないわけじゃないけど、ちゃんと優秀な人間がきちんとした記事を書いてる。何がダメになったかって、読む側が信用してないんですよ。内田樹先生の『先生はえらい』というとても面白い本があって、学校の先生がどうして先生をやっていられるかというと、生徒が先生は偉いと思い込んでるからだと。新聞もそうで「新聞に書いてあるのは本当のことだ」「新聞記事ってのは基本的に鵜呑みにしていいんだ」とみんなが思うことで初めて役割を果たせてた部分がある。「なんか朝日って変じゃないか?」とか「どうせ産経は右だろう」とか思って読むと、新聞の価値は半減しちゃうと思うんですよね。しかも、記者自体が自分の新聞を疑ってる。もっと高飛車にやんないとダメですよ。

武田:そういう不安があるから、記者が自分で「こう思います」と書かずに「いやー、小田嶋さんがこんなことを言ってますよ」と書く。それがネットに出て「ったぅ、ひどいな、小田嶋ってのは」となる。どこに載ったかなんて、関係なくなっちゃうんですよね。

小田嶋:誰かが高飛車に言わないとね。反対側の高飛車なご意見というのは、たとえば松本人志が、何かを混ぜっ返して何もかも無意味にしちゃうような変な笑いを垂れ流してるでしょ。そういうものに対して、ちゃんと建前を言い募る人間がいないと世の中は成り立たない。でも、なぜ俺が建前を言ってるんだろうっていう驚きはあるんですよ。80年代とか90年代は、新聞の言ってる建前をまぜっ返すのがコラムニストの役割でしたから。最近の流行りの言葉でいえば俯瞰的、総合的なことを言うのがコラムニストや学者の役割だったのに、そんなことを政府が言ってるのは不気味なことですよね。

武田:コラムとして読ませるものを書くというのは、政治でもなんでも対象がしっかりズドンと立っているからこそ、そこに足をひっかけたり、後ろから火をつけてみたり、毒を盛ってみたりという技があったわけです。でも、あっちが軟体動物みたいだと、まず立たせ方を教えるところから始めなきゃいけなくて、書くほうはすごく難しい。この本の10年間はそんな時代だったんじゃないかなと思います。

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