中村佑介が語る、自身のイラストを大衆化する意義 「存在としてダサくならないと、文化の裾野が広がらない」
美人画系譜での立ち位置と、“可愛い女の子”という記号を超える挑戦
ーー竹久夢二さんや林静一さんをはじめとする、その時代の女性を描く“美人画系譜”というものが存在すると思います。女性を中心に描いてこられた中村さんは、その系譜を意識することや、自分の立ち位置を考えたりすることはありますか?
中村:意識するよ。みんなが思ってるほど、竹久夢二さんも林静一さんも当時のウケ方はサブカルチャーじゃないし、その当時バリバリ売れてたし、稼いでた。結構、俗な存在だったというか、そこまで崇高な感じではなくて、ポップな存在だったんだよ。その証拠に林静一さんの当時の画集は『サンリオ』から出てたりするわけ。でも、現代で美人画をやるとどうしても存在としてサブカルチャーに寄ってしまう。それを正しく次の世代に持っていくには、そのお二方がやられていたことよりも一歩先に進めなくちゃいけないし、売れたままで古くならないようにしないといけない。次の世代が出て来るまでバトンをしっかり持っておかなくちゃいけない。だから僕はあまり着物や昭和以前のモチーフは描かない。竹久夢二さんや林静一さん達がもう魅力的に描いてきたから、今、当時の着物姿の女性を描いても、それはただのコスプレであって、現代の美人画ではない。現代のスタンダードなものを描くという意味では、僕にとってそれはセーラー服だったんじゃないかな。
ーー中村さんの絵は最近だとどんどん女性の描写が、瞼や上唇、目の虹彩など、書き込みがリアルになっていると感じます。初期の絵は、薄く素朴な顔の女性が中心だったように思うのですが、これはどういった変化なのでしょうか?
中村:“可愛い女の子”という記号に対して「どこまで描いても可愛いのか?」という挑戦をみんながやってきていて、たとえば江口寿史さんであれば鼻の穴を書いたり、鳥山明さんが頬の線を描いたりね。僕がはじめに描いていた女の子はそれまでの人達が作った記号の上で描いていた安全パイだったわけで、「そりゃ可愛いでしょ」っていう。そうじゃなくて、僕も新しい記号を作りたいというか「どこまで描いて大丈夫なのか」みたいな実験をしたいと思ってる。鶴田一郎さんであれば、最近の作品には影が付いていたりして、それを見て、挑戦されているんだなぁって思ったりする。
ーー絵柄を進化させていく中にも、イラストを大衆化させるための目的が含まれているんでしょうか?
中村:そうだね、初期に僕が描いていたタイプの女の子だけだと、大衆向けにはなれなくって。それは2008年に『PORTRATION』という似顔絵展をやった時にも思ったんだけど、自分の絵柄だけでは描けない顔の人って沢山いるなと思ったの。でもちょっと線を足すだけで、色々な人にアプローチできる人間像ができるという勉強にもなった。絵がだんだん変わってきたのは、その前後だったと思う。記号から人間になってきた。
「僕は絵は描けるけど、感受性や情緒はない」
ーー中村さんのインターネットの活用とフットワークの軽さに着目しています。リプライで届いたフォロワーからの声を瞬時に企業に反映させる行動力や、お仕事依頼以外で描いたイラストも仕事として繋げる姿勢が素晴らしいと感じています。プロとして商売する以上はその姿勢は必要だなと感じるのですが、そこは物作りをする人達や目指す人達の意外と苦手とするところじゃないかなとも感じていました。実際のところ、意識的にされているんでしょうか?
中村:これは僕の性格かな。これでイラストの仕事も頂いてきたわけだしね。そこにてらいがある人は、要は「恥ずかしい」ってことだと思うんだよね。「自分のことなんて知られていない」ということにまだ気付いてない。何かある時に緊張する人は、実はすごく自己中心的な面があって「みんなから注目されているから、失敗しちゃいけないから、緊張する」と思ってるわけ。でも本当は誰も見てないの。だから「なんで仕事来ないんだ!」と言ってる人は誰も知らないからであって、本当はちょっと一声かけるだけで気づいてもらえることって多い。
でも最近、脳科学者の中野信子さんの本を読んでいたら、サイコパスの特徴として、「共感能力がない」「緊張しない」「アプローチが得意」と書かれていて、「まんま自分だ!」と思った(笑)。だから、これは僕の持っている資質であって、他の人もやったらいいとは全然思わないし、僕は僕ができることをただやってるだけ。僕自身は、絵を描いてる人よりも絵を見てる人の方が「見る力」を持ってる分だけ偉いと思っていて、よっぽど豊かな心を持ってると思ってる。僕は絵は描けるけど、絵を見る能力や感受性が全然ない。まったくもって情緒がない。
ーー情緒がない?
中村:「こういうのが情緒なのかな?」と思って描いてるけど、夜景とか風景とか見ても子供の頃から感動できなくて変だと思ってた。ご飯も腹が膨れればファストフードでもなんでもいいし、サイン会や展覧会で全国を回っても、ほっといたらホテルでインターネットだけして直帰する。本当に物事に関心がなくて、心が動くべきところでなかなか動かないの。だからインタビューでも緊張しなかったりするんだけれど、そんな自分だからこそできることはあると思ってる。
ーー情緒がない中でどうやって絵を描いているんですか?
中村:みんなのことを見てる、よく観察してる。こういうところでみんなはこう感動するのかなって。
ーー合理的に描かれているということですね。
中村:そう。でも他の人に共感したり、同調したり、テンションが持ってかれるようなことはなくて、映画を見て泣いたこともこの人生で一回もない。その一方で僕はそのことを気にしてるから、こういうところで笑わなきゃいけないんだとか、悲しい顔しなくちゃいけないんだって、勉強するためによくみんなのことを見てるよ。
ーー中村さんのそういう面を聞くと、色々な人の救いになる気がします。持って生まれた資質と、世間一般との相入れなさの間でも、ちゃんとみんなに届く素晴らしい絵を描いていらっしゃるので。最後に、今後やりたいお仕事や目指すお仕事はなんでしょうか?
中村:オリンピックとか万博とかの国の仕事かな。でも、市の仕事をしてみて思ったのは、この感じがもっと巨大になるんだったら、僕の行きたい方向は本当に茨の道だなということ。僕に依頼が来たということは、いつもとは違うアプローチをしたいという現場の若い人達の思いがあったからだと思うけど、審査が上の方に行くに従ってNGが溜まっていく。そういう堅いものをクリアした上で最終的に描かれた絵っていうのは、メッセージが中和されて、観る人のテンションが上がり切らないものがどうしても出来ちゃうんだよね。でも、市長の立場での意見もわかるから、結局「集団」と「個」という思考性の違いがあって、イラストレーションはあくまでも「個」のためのものでしかないから、そこがどうしても水と油で難しいところだね。でも、クリアできたら楽しいだろうなと思うから、出来るようにする。