中村佑介が語る、自身のイラストを大衆化する意義 「存在としてダサくならないと、文化の裾野が広がらない」
メジャー文化にするには“存在としてダサく”
ーーイラストレーターとして活動を始めた当初は「中村佑介=アジカンのイラストの人」と認識されていた時期があったと思います。そこから、幅広い層にイラストレーターとして認知されたと実感されたのは、どの辺りでしたか?
中村:『謎解きはディナーのあとで』(小学館)が2010年に出版されて、ちょうどサイン会のツアーをしてる最中だったんだけど、いきなりサイン会に子供たちが来てくれるようになったんだよね。小学生や中学生達が「図書館で借りました!」と言って来てくれた。そこで「伝わった」って実感した。近い世代は共通言語を持ってるから、絵を通して「わかる!」って言えるけど、子供や年配の方達とは世代が離れすぎていて、価値観の共有をあまりしていない分、絵を通して何が伝えられるかというのはずっと課題にしてた。その前の『夜は短かし歩けよ乙女』(KADOKAWA)も、もちろん大事な作品だけど、あれはやっぱりアジカンと同じ当時の若年層が中心だったからね。
ーー中村さんは以前からイラストレーションをサブカルチャーではなく、メジャー文化にしたいと仰っています。
中村:うん、ダサくしたい(笑)! 絵がダサいとかじゃなくて、存在としてダサいものにしたい。「メジャーだからダサい」という価値観は、未だにあると思う。たとえばTVに出ているアーティストが商業主義的に見えて「カッコ悪い」と感じる人は一定数はいると思う。でも、それができる上で選ばないのはカッコいいと思うけれど、できもしないのに“すっぱい葡萄”みたいな感じで「ダサい」っていうのは、全然違うとも思う。
今回の東京オリンピックも、結局イラストレーターは一人も起用されていないわけだよ。選ばれたのは、漫画家の浦沢直樹先生と荒木飛呂彦先生だけど、それは僕も総理大臣だったらあの二人に頼むと思う。日本文化はイラスト文化じゃなくて、アニメ・漫画文化なわけだからさ。世界に向かってアピールしなくちゃいけないわけだから、「それだったら有名漫画家使うよな」と納得するけれど、だからこそ、そこに入っていけるような文化にならないと、イラストレーターを志す人達が食えるようにはならないと思う。僕も「商業主義的に見えない昔の絵の方が好きでした」とよく言われるんだけど、自分でもそういう風に見られるとわかってて変えた。存在としてダサくならないと、その文化の裾野が広がらないから、いつまで経ってもお父さんやお母さんから反対される職業になってしまう。イラストレーターよりもよっぽど倍率の高いプロ野球選手を親が目指せって言うのは、まだイラストレーターという職業がイメージとして理解できない博打に見えてるってことだからさ。