『鬼滅の刃』評論家座談会【前篇】「現代におけるヒーローとヒールをちゃんと描いた」
『鬼滅の刃』の登場人物は、人の話を聞かない
島田:剣士以外のプロフェッショナルの「生き様」が描かれているのも、『鬼滅の刃』の面白いところですよね。「育手」から「隠」にいたるまで、鬼殺隊の活動を支えるシステムがちゃんと考え抜かれていて、刀鍛治のことも魅力的に描かれている。前線で体を張っている連中だけじゃなく、それを支える人々も同じくら偉いんだと肯定的に描くところに、現代社会の縮図があるというか。
倉本:刀鍛冶の里のエピソードはどれも大好きです。『鬼滅の刃』の登場人物って、ちょっとへんなところがあるというか、基本的に人の話を聞かないタイプばかりで、みんな好き勝手に動いているのが良いんですよね。彼の周りの人もそんな感じで、小鉄くんっていう少年がいるじゃないですか? 刀鍛冶の里で炭治郎の稽古につきあっているうちに、たまたま伝説の刀を見つけて「うひゃー」となるシーンなんですけど、そこで炭治郎と小鉄くんがなぜか組体操をしながら状況説明している(笑)。私はそこにこそ吾峠先生の真骨頂があると思っています。要は、ストーリーとは関係ないところで、登場人物がそれぞれ勝手に動いている。
成馬:「人の話を聞かない」というのは、この作品の本質かもしれませんね。善逸にしても伊之助にしても、全く人の話を聞かないで、ギャーギャー騒いで好き勝手に行動している(笑)。
倉本:炭治郎が所属する鬼殺隊の中で「柱」と呼ばれている、上層部の人間たちが集まる最初の会議のときなんて、鬼になった禰豆子を匿っていた炭治郎の処遇を決める大事な場面なのに、みんなてんでバラバラのことを考えています。その後の話し合いでも全然話が噛み合っていなくて。
成馬:噛み合ってないけれど「まぁ、別にいいか」っていう感じがありますよね。鬼殺隊に入った動機を甘露寺が話している時の炭治郎の反応がすごく好きで「大丈夫だ炭治郎」「これを聞いた者はみんな同じ気持ちになっている」っていう作者のツッコミが入るのもいいですよね。コミュニケーションが成立してないんだけど、それはそれで心地いい。そういうことは現実でもよくありますよね。一方で、無惨と十二鬼月の方は、殺伐としているけど、意思の疎通はできている。
倉本:『鬼滅の刃』の現代性は、そこに集約されると思います。鬼たちの組織のほうは、ある意味ではきっちり統制が取れている反面、パワハラ・モラハラがむちゃくちゃ横行しているという。
島田:炭治郎たちの普段の噛み合わないやりとりを見ていると、逆に戦闘のとき、本来は組むはずのないようなキャラ同士が組んだ瞬間のカタルシスというものがありますよね。時透無一郎が炭治郎に初めて心を開いたときなどもそうだと思うし、ジャンプの他の名作に例えて言えば、『ドラゴンボール』で悟空とベジータが組むとか、あるいは『スラムダンク』で流川のパスが桜木に通る瞬間とか、そういうカタルシス。伊黒や不死川のような、それまで炭治郎とあまり仲のよくなかった柱たちがともに戦う最後の無惨戦は、その面白さが大いに味わえました。あの伊黒が、口では「足手纏いの厄介者」とか言いつつ、傷ついている炭治郎をしっかりガードしてる様子とか(笑)。
成馬:一方で、炭治郎だけは人の話を聞いて、ちゃんと相手と向き合おうとしている。アオイのことを肯定するシーンもそうですけれど、蝶屋敷の小さい女の子三人組のことも「なほちゃん、きよちゃん、すみちゃん」と、ちゃんと名前で呼ぶんですよね。そこが善逸たちと違うところで、彼は三人組のことを「女の子たち」と性別だけで認識しているし、伊之助にいたってはそれ以前。炭治郎の名前も、しょっちゅう間違えるし、勝手にあだ名を付けたりする。
倉本:そういえばヒラ隊士の村田が、同期でもある水柱の冨岡さんが自分の名前覚えていてくれたことに感動する場面もありましたよね。
成馬:人の名前をどう呼ぶかって、コミュニケーションにおけるもっとも大事な部分ですが、この漫画は、名前に対するアプローチの違いでキャラクターの違いを描いている。炭治郎は、誰に対しても「名前のある個人」として接しているんですよね。吾峠先生は末端のキャラクターも名前をちゃんと付けていて、事後処理部隊「隠」の後藤さんとか、普通の漫画ならモブキャラとして描かれる存在も丁寧に描いている。そして、そういう末端のキャラクターとも別け隔てなく仲良くなるのが炭治郎のヒーロー性で、そういうやりとりをさりげなく見せることで、彼の魅力を描いている。その逆が無惨ですよね。彼が見せる部下に対する態度がいちいち酷くて、リーダーとしては全く尊敬できない。挙句の果てには「私に殺されることは大災に遭ったのと同じだと思え」なんて言う。少し前に「俺はコロナだぞ!」と言って騒ぎを起こす“俺コロナおじさん”が多発したことがニュースになりましたが、コロナという世界規模のパンデミックに自分を同一化しているようで、とても傲慢なものを感じます。それは逆説的に「すごく人間的」だとも言えるのですが、自分を天変地異と同じものだと語る無惨の姿と、どこか重なるんですよね。その意味でも現代的な悪のあり方だと思うんです。炭治郎の善と無惨の悪が両極に配置して、鬼殺隊と十二鬼月という組織の対比を描く構造は、すごくよくできていると思います。
倉本:最終回の一つ前の回で、炭治郎と禰豆子と善逸と伊之助の四人で、炭治郎の家に帰って終わるじゃないですか。これまでのヒーローだったら、例えばナルトみたいに最終的に里の長になったりするのが、ある種の定型の像だったと思うんですけど、炭治郎たちは一介の村人に戻っていく。最終回でも、キャラクターたちはそれぞれ一般人として平和を享受していて、そこが現代的ですごく良い。常人離れした強さを身につけたからといって、それが勲章になるわけではなく、みんなあっさりと手放している。実際の人生では、蓄積した強さをどこかで手放さなければいけない瞬間が出てくるじゃないですか。日本の企業で年功序列がなくなって、多くの人がステップアップできるわけではない昨今では、炭治郎たちの強さに執着しない態度は、よりリアリティを持って受け止められるのかなと。
成馬:鬼殺隊と十二鬼月の戦いは「継承」と「個人の永遠」という組織観の衝突ですよね。後続の世代に志を引き継いでいった鬼殺隊と、永遠を志向する個人主義者の集まりである十二鬼月が戦い、最終的に鬼殺隊が勝つという物語になっている。また、炭治郎が不死川玄弥に「一番弱い人が一番可能性を持ってるんだよ」と言う場面があるのですが、この価値観もまた、『鬼滅の刃』という作品の根幹にあるもので、新しかったことだと思います。例えば『ドラゴンボール』の登場人物はどんどん強くなっていくのですが、どちらかというと「個人の永遠」を志向していると思うんです。
倉本:悟空なんてまさにそうですよね。
島田:煉獄が言ったセリフが多くの読者の心に響いたのも、そこじゃないですかね。限りある一生を懸命に生きる存在がいちばん美しいのだという。
倉本:煉獄さんと上弦の参の戦いでは、最初は煉獄さんが優勢だったのが、人間ゆえにだんだん疲れてきて苦戦することになって、上弦の参に「鬼の世界に来ないか」と誘われていましたよね。でも、鬼たちが誇る永続的な強さに対して、煉獄さんはノーを突きつけるわけで。それは先ほど言った「強さに執着しない態度」とも繋がってくる価値観なのかなと。