第163回芥川賞はどうなる? ノミネート5作品を徹底読解

芥川賞はどうなる?ノミネート作を徹底読解

遠野遥「破局」(『文藝』夏季号)

 「破局」は、2019年に「改良」で文藝賞を受けた遠野遥氏の第2作。前作で「女装」に惹かれる主人公を理不尽に襲う暴力、とりわけ「男性」性の暴力を扱った遠野氏が、次は加害者(となる)男性の側から問題にアプローチを試みたのが今作と言えるだろうか。

 ラグビー経験者で、筋トレを日常とする大学生・陽介が肉を食い、公務員試験突破を目指し、母校の高校でコーチとして後輩を指導する。そして、麻衣子と灯というふたりの女性との恋愛を赤裸々に、けれどもドライに語っていく。そこには「私はセックスするのが好きだ」という報告や、観覧車を見ながらの自慰の描写も含まれており、あまりにもな記述を可笑しみつつも、読んでいるうちにさすがに辟易してくる。しかも、当人は真面目でやさしく、正義感の強い人間と自己規定しているらしい。多弁でありながら遠近法のずれた一人称の語りは、読者に一定の不快感を募らせることに成功している。

 「私」は、作品ラストで断罪される。だが、自らを客観視できない「私」を除いて、この男に「破局」への道以外が残されていないことは(そもそも、それがタイトルなのだし)自明である。この点、ストーリー上の意外性が減じているのは悩ましい。とはいえ、さきの三木氏「アキちゃん」と同様、社会的な問題をタイトに小説化し、なおかつ面白さと両立してみせる新世代の作家らの巧妙な手つきには、やはり強く心を惹かれた。

石原燃「赤い砂を蹴る」(『文學界』2020年6月号)

 演劇ユニット・燈座で活動する石原燃氏のデビュー小説。いちおう触れておくと、すでに報道されているとおり、石原氏は作家・太宰治の孫、同じく作家・津島佑子の娘に当たるらしい。とはいえ、作品を読めば、そうした言い回しは自然と慎まれるのではないだろうか。

 「私」は母の友人だった芽衣子の帰郷に同伴し、ブラジルを訪れる。そこには、ヤマと呼ばれる日系移民たちの農場がある。「私」は画家であった母・恭子を癌で亡くしたばかりで、そこに幼くして風呂で溺死した弟の記憶が重なる。一方、芽衣子もまた異郷の地・日本で、アルコール依存の夫の死や、姑の「躾」による流産を経験してきた。彼女らの人生の周囲には、堕落と死が充溢している。本作は互いに共感できたり、できなかったり、それでもゆるやかに連帯しながら、それぞれが人生の呪いに向き合う、ふたりのロード・ノベルだ。旅のムードを象徴する一文を作中から引用しよう。「私と芽衣子さんは、間違いなく同志だった。父親がいないからといって、ひとくくりにはできない。でも、なにか同じものと戦っている、そういう感じ」。

 ちなみに、今回のノミネートで彼女を知った方は、ぜひ本作と併せて、石原氏が津島佑子のコレクション『悲しみについて』に寄せたエッセイ「人の声、母の歌」(2017年)を読んでほしい。それは「母」に向けられた、フィクションのベールを纏わない剥き出しの言葉であり、翻って、本作=フィクションの役割を考えるきっかけになるに違いない。

 以上が今回の候補作である。選考結果が発表されるのは、きたる7月15日(水)。余白に記すつもりで書くと、わたしは石原燃「赤い砂を蹴る」を、次いで高山羽根子「首里の馬」を推している。どうなるだろう。

■竹永知弘
日本現代文学研究、ライター。おもな研究対象は「内向の世代」。1991年生。@tatatakenaga

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