紗倉まなが語る、ラベリングされた“役割”からの解放 「自分を演出するのはやっぱり窮屈」
紗倉まなの小説『春、死なん』が、講談社から発売された。紗倉にとって、小説としては三作目となる今作。表題作「春、死なん」は老人が直面する性を、短編「ははばなれ」では母親の性を描いた。ラベリングされた“老人”や“母親”像からの解放を描ききった紗倉まなに、性差のあわいや、親子の関係について、また役割からの解放について語ってもらった。(編集部)【インタビュー最後にプレゼント企画あり】
役割に縛られて窮屈な思いをしている人たちの、内面に触れたい
――3作目の小説となる『春、死なん』。表題作の主人公は、息子夫婦との二世帯住宅に暮らす富雄。妻を亡くした70歳の老人が、過去に浮気した女性と再会してもてあました性欲に翻弄されるお話です。女性を中心とした性愛の物語を描かれる印象が強かったので、意外でした。
紗倉:年配の、とくに独り身の男性は、ご自身のなかにあるよこしまな思いや性欲をどう処理していくのだろう、ということに以前から興味があったんです。コンビニからエロ本も撤去されていくなかで、これまで以上に表に出すのが難しくなっている欲望は、でも、消えるわけじゃない。私の出演するAVのリリースイベントに来てくださる方の年代も幅広くて、70〜80代の方も少なくないんですよ。
――40〜50代はともかく、いわゆる“おじいちゃん”と呼ばれる世代の方は、そういうものとはもう無縁だろうと勝手に思ってしまいがちですが。
紗倉:そうじゃないんだ、って皆さんにお会いするたび思います。遠方でイベントをした際にも、奥さまがいらっしゃらないから毎日けっこうさみしくて、休日はパチンコとか行ってやりすごしているんだけど、私に会えるって知ったから今日は来ちゃったよ、なんて言ってくださった方もいて。ああ、そういう生活の隙間に私たちがいるんだなあって思って……このお仕事をしていなかったらそんな事にも気づかなかったので、色々な側面を見られてよかったと思います。性的なことは、みなさんにとってはごく普通の、当たり前のものとして生活に根づいているんだな、と発見できた機会でもありました。だから、富雄を主人公に書くことで、みなさんの内面に少しでも触れられたらいいな、と……。読んだら「全然こんな感じとちがうよ!」って思われちゃうかもしれないですけどね(笑)。
――エロ本の山をみた孫の静香に「きっも」「ありえない。じじいのくせに」と言われ、「老人は黙ってゲートボールでもしていれば満足なのか」と富雄が返す場面。はっとさせられました。役割によってイメージを無意識に押しつけている自分にも気づかされて。
紗倉:たぶん、そういうことを私は書きたいんだと思います。男とか女とか、父とか母とか、相手を役割で見れば確かにすごく楽というか、本当は何を考えているんだろうとか、自分は相手を傷つけているんじゃないかとか、考えずに済むこともきっと多いじゃないですか。だけど、役割に添って自分を演出するのはやっぱり窮屈だし、しんどい。どうしても気になってしまうところでもあって、とくに役割に縛られがちな家族を描くことが多いのかもしれません。
――富雄は、常に目が膜に覆われているような違和感を抱えていて、それは老いでもあると同時に“本当のことが見えていない”ことの象徴だとも思いました。
紗倉:見たくないものを見ないようにして逃げる、そのために相手に役割を押しつける、でもその結果、自分も窮屈になっていく……ということを託したくて。いつも、断片的に浮かんできた映像をどうつなげていけば物語として生きるのだろう、と考えながら書くんですが、視界の不調を言語化できず、理由もわからずもがいている富雄の姿は「春、死なん」でいちばん書きたかったところでした。
これくらいわかりやすく傷つけられるなら、諦めがつくのに
――自分とかけ離れた世代の異性を描いてみて、気づいたことはありますか。
紗倉:どうでしょう……。老いについては、私もよく身体に不調をきたすので、わりと書きやすかったです。それは他人ごとではなく、実家の母とたまに会うと、ああ人間の部位はこんなふうに歪んでいくんだなと気づくことも多くて、いままで体調を崩してきたことも無駄じゃなかったなと思いました(笑)。あとは、過去に文江とした一回の浮気をこんなに富雄は引きずるんだな。文江はあっけらかんとしているのに……というところに自分で書いていて両者の間でかなり大きな差があるなと思ったり。
――しょうもないなあ、と思いつつも、意外と純真なところがかわいかったです(笑)。
紗倉:そう思っていただけたならよかったです。もともと、自分とかけ離れた人を書く方が楽しくて。同世代の女性を書くほうが、自分の内面も一緒にえぐっていくしんどさがありますし、どうしても答えを探すことを自分自身に強要してしまうので……。でも、他者のことを書いていると、たとえ答えが見つからなくてもいいや、って思えるんですよね。立場によって物事の見え方は変わるから、誰かひとりが過剰に責められることではないし、問題に明確な決着がつけられなくてもしかたないって、より客観的に受け入れられるんです。
――紗倉さんの書く男性って、女性に対する無自覚な傲慢さをもっていることが多いと思うんですが、その描き方も断罪する感じではないですよね。そのしょうもなさに対する愛が、どこかある。紗倉:私があまりに酷い男性ばかりを描くから、「実は何か大きなトラウマがあるんじゃないか」って聞かれることもあるんですけど、私自身はそんなに意識はしていないんですよね。ただ、富雄の息子の賢治については、改めて読み返してみて、酷い男性の典型だなって思いました(笑)。
――理想的な二世帯同居を演出するために、妻はおろか、自分の母親(富雄の妻)にまで役割を押しつけて、「俺っていい息子」と悦に入っている……。読んでいてかなりイライラしました(笑)。でも、ここまで露悪的に書くのは紗倉さんには珍しいことだな、とも思いました。
紗倉:これくらいわかりやすく傷つけてくる男性なら諦めがつくのになあ、っていう想いはありました。もっと器用に、こちらが反論する隙を与えない形で、じわじわと身勝手さを押しつけてくるいやらしさってあるじゃないですか。私はそっちのほうが苦手なので、賢治は単純で書きやすかったです(笑)。
――二世帯同居が負担で弱っていく母に対する、「母さんは贅沢だな」ってセリフも絶妙にダメですよね……。
紗倉:私はもともと幸せの基準が低くなくて、どんなに恵まれた状況におかれても「わーい幸せ!」って心の底から実感することがあまりないんです。「これって幸せなんだろうな」とは思うんですけどね。ただ、それって人から見たらすごく贅沢なことかもしれないなあと思ったりもして……贅沢ってなんだろうというのも、前々からよく考えていたんです。賢治は、自分のまわりで起きていることをすべて美化しておきたいから、それを受け容れない母親を贅沢だと思う。その後、富雄も女友達の文江をみて「贅沢だ」って思うけれど、それはどちらかというとないものねだりというか、自分の境遇を低く見積もっているから出る言葉。同じ言葉だけど、こめられた意味はちがう。でもどちらも、何かを放棄している……ということを書きたいと思いました。