伊坂幸太郎『逆ソクラテス』が問う倫理とは? 5月期月間ベストセラー時評

月間ベストセラー時評『逆ソクラテス』

権力者による一望監視社会はだめで、民衆の相互監視社会はOK?

『ゴールデンスランパー』(新潮文庫)

 伊坂幸太郎は『ゴールデンスランバー』で監視社会のおそろしさと、そこで犯人に仕立てられてしまった青年の逃亡劇を描いている。ざっくり言うと『ゴールデンスランバー』は国家権力による監視社会に対する批判を描いていたのに、『逆ソクラテス』で人々の間の相互監視社会とそのおそろしさを気付かなかったり軽んじたりしたまま権力を利用した人間が窮地に立たされる様子を描いている。

 国家権力がテクノロジーを使って民衆をハメるのはダメで、弱者が強者を刺すためにテクノロジーを使うのはいいのか? もっとも『逆ソクラテス』に出てくるのは小悪人であり、そういう人たちがそうなったことにも理由はある、追い詰めすぎてはいけない、と強調されはする。いや、いいか悪いかで言えば、それでいいと個人的には思う。この問題はたいした話ではない。

 重要なのは、こちらだ。「記録・告発用のテクノロジーが発達した時代だから、それを前提に正直・誠実に振る舞いましょう」と子どもに教える物語ってどうなんだろう? という点だ。

 「非オプティマス」に登場する教師は「相手によって態度を変えることほど、格好悪いことはない」、「先生が会った人は、自分のせいで誰かが傷ついたんじゃないかと苦しんでたんだ。先生はそのことに大げさだけれど、少し感動したんだ」と語る。しかしその後、損得勘定から考えても倫理的に振る舞った方が良い、という主張に残念ながら着地させてしまう。

 それでは結局、昔は告発できる機会や装置がなかったから「長いものに巻かれろ」「空気読め」と言っていたのが、「後で刺される可能性があるから性格の悪い振る舞いはするな」に変わっただけ、言いかえると状況に合わせて処世術を変えただけで、全然倫理的じゃないんじゃないか?

 子どもが大人になるにあたっては、そんな損得勘定に回収される他律を教えるだけではなくて、もっと積極的に、「損得関係なく振る舞い、自律(格率)に従え」というカント的な倫理も教えたほうがいいのではなかろうか。

 子どもにきれいごと(理念)だけ教えればいいとは思わない。ただ、きれいごと風に見えるが実際には理念なきリアリズムに基づく処世術だけを教えるのも、違和感がある。というのも、人種差別反対にしろ男女平等にしろセクシャルマイノリティの権利にしろ、その時代に合った処世術ではなく、現実から乖離した「理念」に基づき、理念に現実を近づけさせるべく実現させてきた運動だからだ。

 損得だけで考えたら、たとえば男性が圧倒的優位にある社会において女性が「おかしい」と声をあげることに対して「潰されて不利益を被るだけだ。損するからやめておけ」という話になってしまう。損得勘定に基づく価値観では、性差別を解消する運動は進まなかっただろう。

 この短編集には「たとえ誰も見ていなくても真摯に振る舞え」「損とか得とか関係なく、おかしいものはおかしい。おかしいことに対して声をあげていかないと何も変わらない」と言ったり、理念の重要性を説いたりする大人は(ゼロではないが)ほとんど出てこない。

 「評判が大事なんだ」「オモテに見えている姿が真実とは限らないから気をつけよう」「人をバカにしたりいじめたりしたとして、いじめた人間やその親が、バカにしたりいじめたやつの親と取引先になるかもしれない。しっぺ返しが来るかもしれないから、やめとけ」「最終的には真面目で約束を守る人間が勝つ」などと功利主義的に損得や勝ち負けで倫理を説く人が中心に見える。

 それで本当にいいんだっけ?

 この短編集に登場する多くの大人がよしとしている価値観は、一見するとme tooやBlack Lives Matterのような運動を駆動しているものと近いようでいて、決定的に遠い。遠いから良いとか悪いとか、その判断は人それぞれだろう。ただ、ぜひ読んで、このことについて考えてみてもらいたい。

■飯田一史
取材・調査・執筆業。出版社にてカルチャー誌、小説の編集者を経て独立。コンテンツビジネスや出版産業、ネット文化、最近は児童書市場や読書推進施策に関心がある。著作に『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの? マンガアプリ以降のマンガビジネス大転換時代』『ウェブ小説の衝撃』など。出版業界紙「新文化」にて「子どもの本が売れる理由 知られざるFACT」(https://www.shinbunka.co.jp/rensai/kodomonohonlog.htm)、小説誌「小説すばる」にウェブ小説時評「書を捨てよ、ウェブへ出よう」連載中。グロービスMBA。

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