伊坂幸太郎『逆ソクラテス』はなぜ小学生を主人公に? 伊坂ワールドの新境地を読む
「僕はそうは思わない」
この簡単な言葉が、自分を守る武器になり、時に笑みを誘いもする。伊坂幸太郎の短編集『逆ソクラテス』の表題作は、そのフレーズが印象に残る物語だ。
本書はデビュー20周年の節目に出されたものだが、仰々しい内容ではない。自分は知らないと知っているという「無知の知」で有名な哲学者ソクラテスとは反対に、生徒について知っているつもりの先生がいる。「逆ソクラテス」では小学生たちが、そんな先生の先入観をひっくり返そうと企む。同作をはじめ、この本の収録作ではいずれも小学生が主人公となり、クラスのいじめ、無気力な教師、恫喝的なスポーツ指導といった問題が描かれる。
複数の短編にまたがって登場する人物もいるが、一編ごとに独立した話だ。リーダー的存在、クラスメートとは価値観の違う転校生、いじめっ子やいじめられっ子などではなく、それら目立つ子を眺める側の、どちらかといえばパッとしない子ばかりが視点人物に選ばれている。また、どの短編も子ども時代の体験と成長してからの回想で構成される。
人語を喋り未来を予言するカカシが殺される設定の『オーデュボンの祈り』でデビューした伊坂幸太郎は、殺し屋たちが登場するシリーズ(『グラスホッパー』など)、死神が主人公のシリーズ(『死神の精度』など)、小惑星衝突による人類絶滅が迫る『終末のフール』、車が語り手となる『ガソリン生活』といった非日常や超常現象をモチーフにした作品を多く発表してきた。それに比べれば『逆ソクラテス』は日常的で現実的な状況を描いているし、主人公となる小学生の暮らす世界は狭い。
しかし、『逆ソクラテス』には伊坂ワールドのエッセンスと呼べるものが詰まっている。収録作を読むと「スロウではない」では足が速くないのにリレー選手に選ばれてしまった子どもが、多数決の民主主義では本当に困る少数の気持ちが届かないと嘆く。「アンスポーツマンライク」では、バスケットボールで子どもに暴言を浴びせるコーチの指導が「独裁者の手法」と評される。シチュエーションに対し大袈裟にも聞こえる表現は、ユーモラスにも響くが真実をいい当ててもいるだろう。
ふり返れば伊坂は、国民の監視が進んだ『ゴールデンスランバー』や『モダンタイムス』、相互の密告が奨励されている『火星に住むつもりかい?』など、ディストピア的な世界観の長編を発表してきた作家である。それらの作品では国家規模の支配と被支配という大きな力関係が扱われたのに対し、『逆ソクラテス』はクラスやチーム、家庭を舞台にして、子どもたち、先生、親の身近な力関係を描いたといえる。『逆ソクラテス』は、一連のディストピアもののエッセンスを引きついだミニチュアのようなところがある。
本書の収録作もそうだが、人同士の力関係の逆転、弱い側からの意外な反撃は、伊坂のエンタメ小説でよくみられる展開だ。そこでポイントとなるのが、言葉である。彼は初期から、作中の会話の軽妙さを美点にあげられることが多かった。本書もそれは変わらない。