西城秀樹、ピンク・レディーら手掛けたレジェンド 稲垣次郎 90歳の今振り返る激動の時代と海外での再注目

稲垣次郎、90歳で語る海外からの再注目

近年の海外からの再注目「なんで今評価されて売れているのかはわからない」

――そうでしたか。ピンク・レディーとか西城秀樹とか、スタジオ仕事を結構やっていたじゃないですか。スタジオ仕事の経験というのは、やっぱり自分の作るアルバムに影響があるものですか?

稲垣:あったね。とにかく、いわゆる歌謡もの、ムード歌謡のインストルメンタルものを何枚か作って、それがそこそこ売れたりすると、好きなアルバムを一枚作れるみたいなかんじだったので。

――ところで、クルセイダーズやドナルド・バードが好きだった頃に同じようなことをしようとしていた日本のバンドは他にいましたか?

稲垣:いないですよ。

――ミュージシャンからの反応はあったんですか?

稲垣:それもないですね。

――当時はアメリカでやっているものを早くキャッチして、早くやっても、あまり反応はなかった?

稲垣:あまりなかったですね。でも、ジャズロックに足を踏み込み始めた頃、まだ慶應の学生だった景山民夫が面白がって声をかけてくれて、いわゆる学生の主催パーティーみたいなところでライブをやりました。当時のメインストリームとは違うところで、変なことをやってる人に飛びつくような、後の文化人になるような人たちが注目してくれていたのはあったみたいだね。

――植草甚一はどうですか?

稲垣:彼とは付き合いがあった。話が合いましたね。彼らはピットインに観に来ていたんだよね。そもそも“ソウル・メディア”って名前を作ったのは景山民夫の一派なんですよ。「“ソウル・メディア”って名前がいいんじゃない?」と言われて「じゃあそれにしよう」と言って、バンド名になった。まったく注目されていなかったわけじゃないけど、なんとなく変なことをやっているから観にいこうぜ、みたいな人たちはいたと思う。ナイアガラとの繋がりの時に、風都市(はっぴいえんどのマネージメントをしていた音楽事務所)の人が声をかけてくれたりね。

稲垣次郎 90歳の現在

――稲垣さんは、守安祥太郎と共演したことあるんですよね?

稲垣:うん。守安さんは、新宿で3カ月に1回ぐらい、ジャムセッションをやっていたんですよ。それで、守安さんは我々のグループにいたわけ。沢田駿吾がリーダーだった。はじめのステージの時に、守安さんが来なかったんだよね。「どうしたんだろう」と言っていたら、ワンステージ終わった頃に「守安さんという人、知ってますか?」と言われて、「知ってるよ、今日(のステージに)穴を開けて来ないんだよ」と言ったら、その時、電車に飛び込んだと。

――守安さんが亡くなる最後の頃は、稲垣さんのバンドにいたんですね。守安さんはどんなピアニストでしたか?

稲垣:いやあ、すごかった。1953年くらい、僕は『上海バンスキング』(1979年に上演されたミュージカルの名作。日中戦争の頃の上海のジャズミュージシャンを描いている)のモデルになったおじいさんたち(上海のダンスホール「ブルーバード」で演奏をしていた人たち)と横浜のクラブでよく一緒にやっていた。その時に、我々はオーケストラで、その対バンでふたつのバンドが入っていたんだけど、その片方のバンドに守安さんがいたの。その時から、守安さんはすごかったんですよ。

――初めて見た時から、彼はバド・パウエルみたいなスタイルを身に着けていたんですか?

稲垣:うん。『上海バンスキング』のモデルのおじいさんたちと一緒にやっている頃から、守安さんはバド・パウエルだったからね。僕がブルースコードを全然知らない時に、守安さんに教えてくださいと言ったら、ブルースコードを書いてくれたね。

――やっぱり守安祥太郎という人はすごかったんですね。

稲垣:すごかったですよ。

――アメリカ行く前の穐吉(敏子)さんも見ていますよね? 日本にいる頃はどうでしたか?

稲垣:あまり一緒にやる機会はなかったけど、上手かったですよ。彼女はすごいなと思って見ていました。

――最後の質問です。『Head Rock』や『Funky Stuff』で稲垣さんがやってたことは、日本には早すぎたんでしょうか。あまり評価されなかったことに関してはどう思っていましたか?

稲垣:こういうのをやったら評価されないんだろうなと思ってやっていたから(笑)。

――売れると思ってやっていないということですか?

稲垣:そうだね。

――でも、ロックもファンクもアメリカでは売れている音楽だし、ロックは日本でも売れていました。でも、ジャズと組み合わせると売れないし、ジャズだけをやっていたほうがビジネスにはなったと。2000年代くらいから、海外も含めて、突然人気が出て、知らない人が突然訪ねてきたりするようになったわけじゃないですか。最初はどう思っていましたか?

稲垣:最初はディスクユニオンの塙(耕記)さんと尾川(雄介)さんが訪ねてきたんだよね。その頃は再発しようという話ではまったくなくて、「自宅に眠っているレコードを売っていただけませんか?」と。市場には出回っていないようなものがミュージシャン本人のところにはあるんだと。

――面白い。本人なら持っているぞと(笑)。

稲垣:「余っているものがあるんだったら、売っていただけませんか?」みたいなところから始まった気がする。ただ家にレコードが置いてあるだけで、邪魔で処分したかったんですよ。そのうちにだんだん話が大きくなって、「レコードを出したいんです」「CDを出したいんです」というような話になって、「はあ、どうぞどうぞ」みたいな。

――CD化の話が来た時に、どう思いましたか? しかも、当時はそこまで評価されなかった、そんなに売れなかった自覚もあって、それが突然「CDを出しましょう」となったわけで。

稲垣:何も感じなかったかな(笑)。当時、実際何枚売れていたのかというのは、下手すれば何百枚とかしか売れてないし。

――よくわからないけど、騒いでる人たちがいるんだなという感じだったんですね。

稲垣:ありがたいとは思っていますけどね。なんでこれが今評価されて売れているのかはわからないという感じだね。

――でも、アメリカの若者が『Head Rock』や『Funky Stuff』を聴いているというのは面白いですよね。稲垣さんが影響を受けたアメリカで聴かれているって。

稲垣:ほんとだよね。

▼インタビュー前編はこちら

西城秀樹、大滝詠一ら支えたミュージシャン 稲垣次郎 90歳の視点で語る日本ジャズ史と海外からの評価

2000年代に起こった日本のジャズの掘り起こしと再評価により、日本のジャズロック史を築いたミュージシャンのひとり・稲垣次郎が注目…

■リリース情報
『WaJazz Legends: Jiro Inagaki - Selected by Yusuke Ogawa (Universounds)』
発売/配信中

配信リンク:https://inagaki.lnk.to/wajazzlegend
アナログ情報:https://www.hmv.co.jp/news/article/230707114/

品番:配信 COKM-44357/アナログ180GHMVLP03-GOLD
アナログフォーマット:ゴールド・ヴァイナル / 2枚組 / 180グラム重量盤 / ゲートフォールドジャケット仕様

<収録曲>
1. Head Rock / 稲垣次郎とソウル・メディア
2. Sniper's Snooze / 佐藤允彦、稲垣次郎とビッグ・ソウル・メディア
3. いなのめ / 稲垣次郎とソウル・メディア、沢田靖司
4. Breeze / 稲垣次郎とソウル・メディア
5. Freedom Jazz Dance / 稲垣次郎とソウル・ビッグ・メディア
6. By The Red Stream / 鈴木宏昌、稲垣次郎とビッグ・ソウル・メディア
7. Back Off Boogaloo / 稲垣次郎とソウル・メディア
8. 「オメルタの掟」のテーマ / 稲垣次郎とソウル・メディア
9. Twenty One / 稲垣次郎とソウル・メディア
10. 女友達(Wandering Birds) / 稲垣次郎とソウル・メディア、サミー
11. That's How I Feel / 稲垣次郎とソウル・メディア
12. Memory Lane /ソウル・メディア
13. Barock / 前田憲男=稲垣次郎オール・スターズ
14. Guru / 佐藤允彦、稲垣次郎とビッグ・ソウル・メディア
15. Painted Paradise / 稲垣次郎とソウル・メディア
16. Express / 稲垣次郎&ヒズ・フレンズ

稲垣次郎 日本コロムビア アーティストページ:https://columbia.jp/artist-info/inagakijiro/

▼【J-DIGS】稲垣次郎とソウルメディアを聴こう

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