Creepy Nuts、新作『アンサンブル・プレイ』をポップたらしめるフィクション性 “主体を隠す”ことから生まれた普遍的な解釈
ドキュメントの先で“フィクション”を手にしたCreepy Nuts
Creepy Nutsのニューアルバム『アンサンブル・プレイ』。このアルバムで強く印象に残るのは、作品全体の“タイムレス”な構成であり、それを意図的に作品の全体像としたR-指定とDJ松永の意志だった。
もちろんこれまでのCreepy Nutsの作品も、時流に大きく左右されるようなものではない。サウンドやラップにはその時々のトレンドや手法を貪欲に取り入れつつも、時好の言葉やプロダクションをトレースするような、“流行”を意識させるようなことはほぼなかった。時制を感じるとしたら、その当時のシーンやラップスタイルを戯画化的に描いた「みんなちがって、みんないい。」や、〈ダンジョン〉というワードが出てくる「未来予想図」ぐらいではないだろうか。『SONICMANIA 2022』での「朝焼け」のパフォーマンスからも感じたが、過去の曲であっても現在に通じるような普遍性が内容に担保されており、聴き直して“リリースされた時”を思い起こさせ、表現として時流をリスナーに意識させるような作品はほぼない(もちろん、それは再聴した瞬間に、初聴の記憶がリスナー個人にフラッシュバックするという機能とは別の意味だ)。
『アンサンブル・プレイ』はそういった意味を超えて“タイムレス”だと感じた。
それはまず、今作が“フィクション”が中心になっているからだろう。Creepy Nutsの作品は、その楽曲が作られた当時に彼らの置かれている状況や、そこで見える景色、そこでのマインドやメンタルの移ろいを“ドキュメント”しつつ、そこに普遍性を込めてきた。ターニングポイントであるメジャーデビューを“あるある”としてポピュラリティを担保した「メジャーデビュー指南」、ハードなライブの日常とそこでの経験値を形にした「グレートジャーニー」、ある種の卑屈さや斜に構えた態度を脱ぎ去り〈I wanna be a 勝者〉と自信を持って宣言するに至った「かつて天才だった俺たちへ」などには、そういった“状況と変化”がよく表れているだろう。
そういった自分たちの置かれている状況や、そこで生まれた自意識に視点の照準を合わせ、“内観”したーー単なる内面を描くのではなく、内面を“観察”した上でのリリックーードキュメンタリストとしてのCreepy Nutsの一つの頂点が前作『Case』だったと言えるだろう。
『Case』は決して明るくはない作品だった。「土産話」や「Lazy Boy」のように“その先にはフェイムを獲得している”という現実を表した曲や、「のびしろ」のように“それでも自分を中心に据える”というマインドを表した曲など、“現在地という回収”があるとしても、特に「デジタルタトゥー」や「15才」のような、Creepy Nuts自身も「自傷行為」(※1)と話すような過去への悔悟の強い楽曲は、リスナーの心をえぐるような曲であることは間違いない。なぜリスナーをえぐるのか。それは“内観”だからだ。単純に内面を主体的に描いて「辛い」「キツい」と書くだけなら、「まあ、お辛かったんでしょうね」でリスナーも終われるのだが、その辛さやキツさがなぜ起こっているのか、その根本の原因を腑分けし、解析し、心の動きを逐一“客観的”に書くことで、こちらにも同じような内観を迫ってくる。スチャダラパー「ユラリジャーナル」のように〈のぞいちゃったよ自分の暗闇〉〈ほう暗闇 いいじゃない 大事大事/そういうのがなきゃ何〉と気軽に言えるのならいいが、『Case』の内観はもっと強迫的であり、それはCreepy Nuts自身も強迫的な観念で「15才」などを描いたからだろう。
その意味でも“ドキュメント”であった『Case』よりも、“フィクション”というドキュメントとは基本的に対になるような構造で作られた『アンサンブル・プレイ』は、全体像としてポップであることは間違いない。
フィクション性が今作の中で最も強いのは、「フロント9番」だろう。刹那的な愛欲の情景とその結末を描くこの曲は、男女関係においての女性の視点で物語が進んでいく。つまり、“R-指定の実存とは完全に離れた物語”として描かれる曲だ。そしてこの曲の内容について、筆者が行った『アンサンブル・プレイ』のインタビューで、R-指定自身は「悪者になりたくない男性を振り回す女性を中心に据えた」というニュアンスの話をしている。しかし筆者としては、この曲の女性は“相手の顔を立ててあげようとしている”と感じた。それが作者であるR-指定とはやや異なった解釈だったとしても、これはそこまで曲解ではないようにも思うし(「悪役になりたくない」という結末の認識は共通している)、そういった解釈の違いこそ、このアルバムに許されていることであり、それが作品を“ポップ”として成立させている。
『Case』は“主語:Creepy Nuts”、かつその存在が作品全体を強く支配するアルバムであり、解釈の幅をあまり許すものではなかった。ゆえに作品の根本的な性質としては“ポップ”さは実はそこまで強くないと筆者は考える。しかし今回の『アンサンブル・プレイ』には、フィクションを通して様々な主語が曲ごとに偏在することで、作品全体を統治するような絶対的な支配者がいなくなり、そこで解釈や理解の幅が広がっていく。つまり、今作の主語はCreepy Nutsではないかもしれないし、リスナーでもないかもしれないし、さらに別の存在かもしれない。それくらい“Creepy Nutsに主語を置かない”し、曖昧な主体で成り立っている。“これはCreepy Nutsの話であり、あなたの話でもある”という共犯関係を求めた『Case』とは大きく違う。
DJ松永も、筆者が行った『アンサンブル・プレイ』のインタビューで「何人ものビートメイカーが参加したようなサウンドにしたかった」と話すように、自身のビートにおける“DJ松永印”のような個人作家性よりも、意図的にそのサウンドに幅を持たせている。もともと多作なタイプであり、例えばDJプレミアのような一聴してその人だと分かるようなシグネチャーサウンドを作るよりも、カラフルなサウンドを作れるタイプのビートメイカーだが、今回のより広がりを持ったサウンドの打ち出しは、“Creepy Nutsという主体を押し出さない作品性”の背骨ともなっている。
その意味でも“シンガーソングライター的”ではなく“職業作詞家/作曲家的”なアプローチによって生まれる物語性や、主体の曖昧さも含めた感情移入や解釈の余地の大きさという部分でも、全体を通して非常に歌謡曲的/ポップ的なものになっている。
例えば「パッと咲いて散って灰に」を聴くと、MCバトルやDJバトルでのCreepy Nuts両名の戦績を知る者ならば、そういったイメージを浮かべるだろう。しかし、「第94回選抜高校野球大会」の毎日放送公式テーマソングとして流れれば、その内容は野球につながるだろうし、作品自体、もっと広く全ての勝負事に適用することが可能な内容だ。YOASOBIとのコラボ曲である「ばかまじめ(Creepy Nuts×Ayase×幾田りら)」も、Creepy NutsとYOASOBIの存在を想起しなくても成り立つ楽曲になっている。そういった普遍性の高い構成や、時制に左右されない、いわば“10年後に聴いても変わらない”“20年後に新しく聴かれても通じる”内容こそが、今回の“タイムレス”さを担保している。