稲葉曇、『ウェザーステーション』を経て手にした自分らしさへの自信 全収録曲を語り尽くす
2016年にボカロPとして活動をはじめて以降、歌愛ユキを使った楽曲で人気を集め、代表曲「ロストアンブレラ」がTikTok経由で海外にも広がった稲葉曇。彼が2019年の『アンチサイクロン』に続く2作目のアルバム『ウェザーステーション』を3月23日に発売する。
ボカロPとして活動をはじめたいきさつや、1stアルバムから新作までの出来事、ボカロ文化への思いなどを話してもらった前編に続いて、この後編では『ウェザーステーション』の楽曲の制作風景をインタビュー。「稲葉曇のこれまでのすべてが詰まっている」と語る作品ができるまでを聞いた。(杉山仁)
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ほとんどの曲に入っている気象、自然なども含めた地理の要素
――この後編ではアルバム『ウェザーステーション』の収録曲について詳しく教えてください。1曲目の「ひみつの小学生」はどんなアイデアでできたものだったんでしょう?
稲葉曇:この曲は歌愛ユキの10周年につくった曲で、気付いてくれている方もいるんですけど、歌詞の中で歌愛ユキの年齢である小学生で習っている漢字は漢字表記にして、習っていないものはひらがな表記にしています。サウンド面では、自分がもともと2012~2013年頃にすごく聴いていたボカロックに影響を受けていて、最初からこのテンポで、このコード進行で、歌愛ユキでやるならどんなものがベストかを考えました。ずっとテンポが速いだけではなく、2番のサビの後に空気が変わりまっすぐなメロディが増える展開も含めて、歌愛ユキのために色々と考えた曲です。次の「ハローマリーナ」は、歌愛ユキと初音ミクを使った楽曲で、サビを思いついた時点では歌愛ユキに歌わせていたんですけど、その後Aメロを思いついたら、その部分がユキよりもミクっぽいなと思って。どっちにしようか悩んだ結果、交代で歌ってもらいました。
――サウンド的には、80年代っぽいきらびやかなエレポップの雰囲気も感じました。
稲葉曇:「レイニーブーツ」をつくる前ぐらいに、「ドラムやギターがあまり前に出てこないような曲もつくってみたいな」と思った時期があって。それを今回やっと出せた曲になりました。ちなみに、この曲のテーマの一つにフィヨルドがあります。フィヨルドって深く侵食されてできた入り江なので、歌詞にも〈深く/深く〉というキーワードが出てきたり、〈重荷を解いて〉というように、港町が連想できる表現が出てくる曲になっていて。要は誰かと誰かの物語なんですけど、どっちも無機質で、船と港の話なんです。
――なるほど。これは何かきっかけがあって出てきたアイデアなんですか?
稲葉曇:自分はもともと地理が好きで、気象、自然なども含めて、ほとんどの曲にその要素が入っているんです。なので、この曲にも自然とその雰囲気が出てきたんだと思います。
――次の「レイニーブーツ」は長靴を連想させる、とても音数が多い曲ですね。
稲葉曇:「レイニーブーツ」と同時期に作っていた「ハルノ寂寞」がゆったりとした雰囲気だったので、その反動のような感じで、耳に引っかかるようなアイデアが浮かぶたび、積極的に入れていきました。サビのメロディもギリギリ人が歌うメロディとして成立しているかもしれない、というものに挑戦しました。ずっとズレていたら違和感になってしまうと思うんですけど、落ち着いた綺麗なメロディの後に、ズレを感じそうなメロディを入れたりして、バランス感を考えたところが多いです。
――前編でも話してもらいましたが、不協和音になるギリギリを攻めてズレをわざとつくっているんですね。「ラグトレイン」はどうでしょう?
稲葉曇:当時はロックっぽいものをつくることが多かったんですけど、「四つ打ちでミドルテンポの曲」「ギターが目立ち過ぎない曲」って作ってこなかったなと思って、歌愛ユキの声にも合うと思ったので作り始めました。今まで作った曲と比べても、作りたいイメージがはっきりしていたと思います。電車の要素を入れるというアイデアも最初からありました。
あと、もともと1stアルバム限定の曲にするつもりで、動画投稿もなしと考えて作っていた曲でした。ただ、(アートワークを担当している)ぬくぬくにぎりめしに聴かせたら、「絶対伸びる」とか「アルバムだけの曲にするにはもったいない」とか言ってくれて。デモの時点で、静止画なくて動画の曲だとも言ってました。ぬくぬくにぎりめしも沢山ボカロ曲を聴いてきた人なので、そのセンサーが反応したのかもしれないです。
――続く「ハルノ寂寞」は、歌愛ユキを開発したAH-Software(AHS)のVOCALOID製品「弦巻マキ」の公式デモソングですが、これは稲葉曇さんが歌愛ユキを使い続けてきたからこそ生まれた曲でもありそうです。最初に依頼がきたときの感想を教えてください。
稲葉曇:まずはめちゃくちゃ嬉しかったです。ずっと歌愛ユキを使わせてもらっていたので、こういうお話が来るのは夢でもあって、もしも来たら絶対に受けようと思っていました。最初はもっと速いテンポの曲だったんですけど、弦巻マキのAI版の声を聴いたときに、それよりこのテンポの方が絶対に合うと思いました。弦巻マキの声からイメージしてできた曲ですね。
――弦巻マキのAI版の特徴でもある、自然な人間っぽさを活かした曲にしたんですね。
稲葉曇:そうですね。自分のもともとの好みとしてはもうちょっとボカロっぽい声の方が好きなので、最初は「声が綺麗すぎて、自分の曲の雰囲気とマッチするかな?」という不安もありました。でも、このAI版の音声は本当にリアルな人の声のような魅力があるので、逆に極限まで人間っぽい魅力を引き出してみよう、と。その分、バランスを取るためにも、曲は完成されたキラキラしたものは入れずに、シンプルで暗く寂しいけれどもどこか優しさが感じられる雰囲気のものにしていきました。ちなみに、この曲は使い古された通学カバンがテーマになっています。僕には弟や妹がいるんですけど、兄弟がいる人って、学校で使うものってお古を使ったりするじゃないですか。そういうテーマも曲にあるというか。
――なるほど。学年が切り替わる季節という意味での「ハル」の歌なんですか。
稲葉曇:そうなんです。内容としては、新品と比較されることや、結局最後は捨てられてしまうことが歌われていて、でも「大切にしてくれたからいいかな」というものになっていて。人目線ではなくてカバン=モノ目線になっています。
――この曲は英語バージョンに当たる「Loneliness of Spring」も印象的でした。
稲葉曇:英語バージョンは本当にタイミングと運が重なってできたものでした。「ロストアンブレラ」が海外でも人気が出たタイミングで、その曲でも使っている歌愛ユキの開発元でもあるAHSさんが出している弦巻マキの公式デモソングで、しかも弦巻マキが英語にも対応しているからこそのバージョンで。ボカロ曲で英語詞のカバーを出してる人はなかなかいませんし、英語のボカロの調声も経験してみたいなと思って作りました。英語の調声に合わせて、フレーズの伸ばし方やタイミング、ミックスも変えていきました。
――6曲目の「カゼマチグサ(album ver.)」はどうでしょう?
稲葉曇:クロスフェードを聴いてない方はネタバレになっちゃうので、この解説は飛ばしてほしいんですけど、アルバムではユキに歌ってもらい、オケの方も後から思いついたアイデアを少し足したりしました。メロディは完全にヒメで歌わせてて思いついたものなので、ボーカルが違うことでどんな変化があるかを楽しんでくれると嬉しいです。ちなみに、これは偶然だったんですけど、サビの部分で僕が鳴花ヒメのボーカルを消し忘れていて。再生した時にユキとヒメの声が重なってたんですけど、それが柔らかさと存在感を併せ持ったとても良い声になっていたので、完成版でもそれを残しました。ほとんど分からないようにしているんですけど、サビだけ鳴花ヒメと歌愛ユキが一緒に歌っています。
――一方で、次の「レーダー」は稲葉曇さんの楽曲の中でもかなりの新機軸という印象です。
稲葉曇:そうですね。この曲は、前編でも話したように、「驚異的な中毒性」のタグがついてそうな曲を目指すのではなくて、色んな歌詞や音のバランスによってもっと内面の魅力を表現した「自分の音」をつくることにチャレンジした曲でした。
――トラックも歌も同列に扱っているようなイメージで、音数も少ないので、曲に入れる要素を極限まで削ぎ落としたミニマルテクノを聴いているような感覚にもなります。
稲葉曇:確かに、「レイニーブーツ」のような曲とは全然違いますよね。そもそも自分は足し算でしか曲をつくってこなかったんですけど、この「レーダー」は引き算で、思いついたフレーズから音をどんどん削ぎ落していきました。自分の思うフレーズやリズムを表現できる、最低の音数でできた曲です。シンプルで落ち着く曲や音数の少ない曲も好きで、稲葉曇の歌愛ユキで色んな曲を聴いてもらいたいという思いもあり、チャレンジをした曲でした。
――「かたむすび」(2017年のコンピレーション『アルカロイドに溺れる』収録曲)についても教えてください。
稲葉曇:1stアルバムをリリースした後に、アルバム(『アルカロイドに溺れる』)自体の在庫がなくなったみたいだったので、正規に聴けるものとしてこのアルバムに収録しました。当時、めちゃくちゃ速いテンポで、少し暗めのロックの曲をつくろうと思ったんですけど、思っていた以上に暗くて鋭い曲になって。実はそれでもう一度チャレンジしてできたのが、「ロストアンブレラ」でした。なので、展開やリズム感が似ていて、ある意味双子感がある曲になってます。
次の「天泣」ですが、こちらも2018年のコンピレーション『アントゥルース・ディストーション』の収録曲で、動画投稿はしない曲として好きな方向性でやりきったので、自分のやりたい表現が濃く表われているかな、と思います。あと、歌詞のつくりかたのコツを掴んだターニングポイントとなる曲でもありました。