ヒトリエ wowakaが音楽シーンにもたらした“発明” ロックをアップデートしてきた足跡を辿る
ヒトリエのwowaka(Vo/Gt)が4月5日、逝去した。
死因は急性心不全。享年31歳だった。
あまりに突然のことで、第一報を見たときには、しばらく目を疑った。バンドは今年2月に最新アルバム『HOWLS』をリリースし、それを引っさげて全国ツアー『ヒトリエ TOUR 2019 "Coyote Howling"』で各地をまわっている最中だった。彼の死を受け、6月1日の新木場STUDIO COASTで開催される予定だったツアーファイナル公演も含め、ワンマン公演は中止、イベントへの出演は全てキャンセルとなった。
「突然の悲報に接し、メンバー・スタッフ一同、現実を受け止められない状況です。バンドの今後の活動については現在未定ですが、イガラシ、シノダ、ゆーまおの各メンバーは、これからも音楽活動を続けてまいります」と、オフィシャルサイトでは報じられた。
僕自身、ショックはとても大きい。
ツアー中だったというだけでない。ヒトリエというバンドの歩んできた道程自体が、まだまだ途上だった。昨年には初の海外公演もあった。もっと大きなステージに立つようになるだろう、もっと沢山の人にその音楽が届くだろうと信じていた。
特に、『HOWLS』に収録された「ポラリス」は、バンドの輝かしい未来を想起させるような曲だった。wowaka自身の切実な思いを込めた、とても大事な曲だった。それを紐解くために、彼の足跡を改めて振り返っていきたい。
彼がボカロPとしての活動を始めたのは2009年。およそ10年前のことだ。ニコニコ動画に最初に投稿した楽曲は「グレーゾーンにて。」。曲に添えられた「現実逃避って、いいよね!」というコメントから、一時期「現実逃避P」と呼ばれたこともあった。
彼はそこから3カ月で続けざまに6曲を投稿している。初音ミクと出会ったこと、ボーカロイドで音楽を作るということは、きっと当時の彼が没頭した最高の「現実逃避」だったのだと思う。
その登場は鮮烈だった。ニコニコ動画上で最初に大きな注目を集めたのが2009年8月に投稿した「裏表ラバーズ」。この時点でwowakaの作風は確立されていた。癖のある高速のビートに乗せて音数を詰め込んだ“過圧縮”のバンドサウンドと共に早口の節回しで歌う、その後のボーカロイドシーンでも日本のバンドシーンでも2010年代に一大潮流を築き上げた曲調は、まさしく彼の“発明”だった。
それまでにも、cosMo(暴走P)による「初音ミクの暴走」など、ボカロだからこそ可能になった“機械のボーカリゼーション”として早口のメロディを追求した楽曲はあった。しかしwowakaが革新的だったのは、彼自身が影響を受けたNUMBER GIRLやTHE BACK HORNなどの音楽性を基盤に、それを邦楽ロック、特にポストハードコアやエモの系譜に連なる音楽性として展開したこと。
そしてもう一つ鮮烈だったのは、『THE IDOLM@STER』由来の「◯◯P(=プロデューサー)」という名乗りが一般的だったことからもわかるように、同人音楽やアニソンやキャラソン的な表現が主流だった初期のボカロシーンにおいて、あくまで自己表現としての音楽を貫いていたこと。それも、懊悩する自意識を“自分の中に住まう少女に仮託した”形で歌にしたことだった。
どうして尽くめ の毎日 そうしてああしてこうしてサヨナラベイベー
現実直視と現実逃避の表裏一体なこの心臓
どこかに良いことないかな,なんて裏返しの自分に問うよ。
こう歌う「裏表ラバーズ」の歌詞は、きっと、当時のwowaka自身の心の声でもあったはずだ。
そこから「ローリンガール」、「ワールズエンド・ダンスホール」、「アンハッピーリフレイン」と、wowakaは続けざまにニコニコ動画で100万回再生を達成する楽曲を発表していく。
そこには、あきらかに彼自身の作風がシグネチャーとして刻み込まれていた。無邪気で可愛いキャラクターとしての初音ミクに「歌わせてみたい」というモチベーションではなく、最初からwowakaの中にはマグマのように沸々とたぎる熱があった。その衝動を轟音に乗せた叫びとして表現するかわりに初音ミクというツールを通して表出したからこそ、高速のリズムに手数の多いフレーズ、言葉を次々と畳み掛けるような彼独特の音楽性が生まれたのだ。
言ってしまえば、00年代末に、新しいテクノロジーを用いてそれまで誰もやっていなかった形でロックという音楽をアップデートしたのが彼だった。