小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード6 ポン・ヌフの大天使 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード6

エピソード6
ポン・ヌフの大天使 ♯2

 パリの秋は日が短い。劇場を出ると、すっかり暗くなっていた。係員が「あと15分で閉園します。近くの出口に向かってください」と言いながら巡回している。街灯の明かりを頼りに歩くと、何度も写真で目にしたことのある女性像が忽然と姿を現した。自由の女神だ。フランスからアメリカに贈った像の原型であると小さな案内板に記されている。
 紫郎はポケットから10フラン銀貨を取り出して、まじまじと眺めた。日本館の部屋の引き出しの奥に1枚だけ入っていたコインだ。前の住人の忘れ物らしい。銀貨には女性の横顔がデザインされている。フランス共和国を擬人化したイメージといわれる女性像で「自由の女神」として知られている。名前はマリアンヌ。ドラクロワの名画「民衆を導く自由の女神」でフランス国旗を掲げて民衆を先導する女性もマリアンヌだ。
 自由の女神の毅然とした立ち姿を見ると、やはり富士子を思い出す。そういえばラ・クーポールに富士子はいなかった。いや、むしろ今日はいなくて良かったのだと紫郎は思った。こんなことに彼女を巻き込みたくはない。
 公園はもはや真っ暗で、多くの人影がぞろぞろと同じ方向に動いている。向こうに出口があるのだろう。紫郎も彼らの後に続いた。

ギニョールの人形。リュクサンブール劇場で売られていた商品を1990年ごろに村井邦彦が撮影した。「手作り、価格400フラン」と記されている。当時は1フラン=約25円だった。

 出口のゲートを抜けるとヴォージラール通りに出た。紫郎は「パリの通り歴史大事典」の地図を思い浮かべた。そうか、公園の北西から出たのだ。すると、この先にボナパルト通りがあるはずだ。そう思った瞬間、口笛の音が鋭く響き、すぐに複数のエンジン音が聞こえてきた。出口に見張りをつけていたのか。しつこいやつらだ。さっきの人形芝居の悪党みたいだと紫郎は思った。
「いたぞ、あそこだ」とオートバイの男が叫んだ。
 紫郎はボナパルト通りと並行して南北に続く修道院小路という名の遊歩道に入った。いくつか石段があって、ボナパルト通りより高くなっているから、車は入ってこられない。紫郎は体力を温存しながらゆっくり走った。さて、この先どうするか。紫郎が2つ目の石段を駆け上ったとき、後ろで激しい衝突音がした。強引に石段を上ってきたオートバイが遊歩道のベンチに激突していた。倒れたバイクの下敷きになった男が悪態をついている。紫郎を追いかける気力と体力は残っていないようだ。これで敵が1人減った。

 紫郎は噴水のある広場にたどり着いた。若い男がアコーディオンを弾きながら聴いたことのないシャンソンを歌っている。音の出ない鍵盤が2つか3つあるようだが、男は気にも留めていない。噴水の向こうに2つの巨大な尖塔を持つ聖堂がそびえている。ノートルダム大聖堂に勝るとも劣らぬ威容だ。そうか、これがサン=シュルピス教会か。中にドラクロワの絵があるはずだ。彼は迷わず教会の扉を開けた。
 外の喧騒とは打って変わって、堂内は静寂に包まれていた。高い天井を支える太い柱が奥に向かって立ち並んでいる。紫郎のほかには老夫婦と若い男の3人しか見当たらなかった。
 ドラクロワの巨大な絵画は入り口近くの「天使の礼拝堂」にあった。壁面に2点、天井に1点。壁面の「ヤコブと天使の戦い」は美術雑誌で見たことがあるが、紫郎は天井の「悪魔を撃つ大天使ミカエル」に強く魅かれた。つい数十分前に見た人形芝居を思い出したからかもしれない。宙に浮いた大天使ミカエルが長い槍で悪魔を懲らしめている。長い棒で悪漢をやっつけたギニョールの姿にどこか似ていると紫郎は思った。
「おい、ここにアジア人が入ってこなかったか」
 いきなり静寂が破られた。ガマガエルの声だ。青白男もいる。ドラクロワを見た後、主祭壇の前まで来ていた紫郎はとっさに腹ばいになり、無数に並んでいる椅子の陰に身を隠した。
「ここは聖なる場所です。お静かになさい」と老紳士がぴしゃりと言った。
「あ、ああ、悪かった。アジア人の若い男だ。さっきここに入ったはずなんだが」とガマが少しトーンを下げて訊いた。
「いやあ、ご覧の通り、誰もいませんよ。若い男性なら1人見かけましたけどねえ。ただ、アジア人ではなかったと思いますが……」
 あの老紳士、自分を見なかったはずはない。とっさに機転を利かせてくれたのだと紫郎は思った。
「そ、その若い男はどこだ」とガマが畳みかける。
「礼拝堂の方に行きましたよ」と今度は妻の方が奥を指さした。
 ガマと青白男が礼も言わずに駆けだしていったのを見送って、紫郎は立ち上がった。
「どうもありがとうございます。ファシストたちに因縁をつけられて、逃げていたんですよ」
「なるほど、困った連中だねえ。暴力はいずれもっと大きな暴力に打ち負かされる。それが分からないのか。なんと愚かな……。さあ、彼らはすぐに怒って引き返してくるでしょう。逃げるなら今ですよ」と老紳士が言った。太い眉、大きな目、白髪交じりの豊かな口ひげ。大学の教授か、偉い医者にいそうなタイプだ。「ありがとうございます」と日本式の最敬礼をして、紫郎は教会を飛び出した。

 紫郎は車が通れそうもない細い通りを選びながら北へと向かった。サン=ジェルマン・デ・プレ教会の脇を抜け、あえてフュルスタンベール広場に寄ってみたのはドラクロワがサン=シュルピス教会の絵を描くために構えたアトリエがあるからだったが、この選択は失敗だった。広場に入ったとたん、背後で口笛が鋭く響いた。
 見つかった。エンジンを始動させる音が聞こえる。だが、さほど近くはない。細い路地をジグザグに走ればなんとかなるだろう。
 紫郎は造幣局の前に出た。目の前はセーヌ川だ。黒々とした水面に街灯の明かりが映っている。向こう岸にルーヴル美術館、手前にポン・デ・ザール(芸術橋)が見える。紫郎は日本館の図書室にある古い美術雑誌で目にしたピサロの絵を思い出した。「セーヌ川とルーヴル宮殿」というタイトルがついていた。無性に魅かれる絵だった。
 彼は造幣局の前からコンティ河岸まで下りていった。セーヌを渡る冷たい風が吹きつけ、夜鳥が怪しげな声でひと鳴きした。それが合図だったかのように、さっきまで街を覆っていた灰色の厚い雲がちぎれ、満月が顔をのぞかせた。紫郎は自分を見下ろす鋭い視線を感じ、急いで身を伏せたが、遅かったようだ。頭上で口笛が鋭く響く。左岸からシテ島を通って右岸に通じる橋、ポン・ヌフの上に見張りがいたのだ。月の光が自分の白いセーターをくっきりと浮かび上がらせているのに気づいて、紫郎は舌打ちをした。
「いたぞ。この下だ、川べりだ」

コンティ河岸から見たポン・ヌフ(ヌフ橋)。左端にシテ島のポン・ヌフ広場にあるアンリ4世の騎馬像が見える。

 造幣局側から3人が追ってくる。東のサン=ミシェル橋側からも何人か……4人ほどがやってくる。紫郎はポン・ヌフの下で挟み撃ちにされた。しかしピンチだというのに、彼はポン・ヌフ広場に立つアンリ4世の騎馬像を見上げ、その存在感に胸を打たれていた。ブルボン朝の創始者で、歴史の教科書に載っていた「ナントの勅令」はこの人が出したのだ……。そんなことを考えているうちに、ファシストたちが目の前にやってきた。
「手こずらせやがって。もう逃げられんぞ」とスキンヘッドが叫んだ。
「あんたたちもしつこいねえ。僕一人を追いかけるのに、こんなに人手と時間をかけちゃってさ。よっぽど暇なんだね」と紫郎が腕組みをして言った。
 彼は状況を素早く計算していた。相手は7人。もう1人、橋の上に見張りがいる。セーヌの流れは思ったよりも速い。水温は相当に低そうだし、この悪臭を放つ川に飛び込むのは気が引ける。仮にうまく泳いで近くに停泊している平底船までたどり着けたとしても、橋の上にいる見張りからは丸見えだ。マイナスの要素が多すぎる。さて、どうするか。ギニョールの棒かミカエルの槍でもあれば応戦できるのだが……。
 魚のような目をした男が無表情のままつかつかと寄ってきて、いきなり紫郎の襟をつかもうとした。次の瞬間、男は宙を舞い、石畳に体を打ちつけられていた。
「この野郎」とガマガエルが怒鳴った。
「先に手を出したのはこの男だろう。僕は自分の身を守っただけだ。日本の柔道を甘く見てもらっては困るねえ。今度はセーヌ川に放り込むぞ」
 語気を強めて脅したつもりだが、相手にひるんだ様子はなかった。一対一なら柔道の技で倒せるが、全員でかかってこられたら逃げるしかない。受け身もとらずに投げ飛ばされた魚目の男は、まだ倒れたまま腰を押さえてうめき声をあげている。しかし残る6人がじりじりと距離を詰めてきた。紫郎は1歩、2歩と後ずさりする。プラタナスの枯葉がカサカサと音を立てた。
「君たち、戦争ごっこはそこまでだ。川添君、大丈夫か?」
 そう声を発した黒い影がゆっくりと近づいてきた。「川添君」と日本語で呼びかけた声には聞き覚えがあった。
「なんだ、てめえは。痛い目に遭いたいのか?」とガマガエルがすごんでみせたが、黒い影はスッとガマに接近し、みぞおちをステッキで一突きした。ガマはグウと唸ったまま、うずくまって動かなくなった。
「こいつ、やっちまえ」とスキンヘッドが号令をかけ、残る4人が一斉に黒い影へと突進していった。4人のうち3人はナイフを手にしていたが、ほんの10秒ほどで全員討ち取られた。紫郎の耳にはステッキが風を切る音と4人のうめき声しか聞こえなかった。
「君がリーダーのようだね。さあ、どうする。降参かな?」と黒い影がスキンヘッドに言った。ステッキを下段に構えている。間違いない、あの背広男だ。
 その瞬間、耳をつんざく破裂音がした。銃声だ。銃弾はどこにも当たらず、セーヌの彼方に消えていった。向こうに空を突くノートルダムの尖塔が見える。撃ったのはスキンヘッドでも、背広男でもなかった。倒れていたガマが半身を起こし、震える手で拳銃を構えていた。背広男の表情が険しくなった。
 紫郎は頭をフル回転させた。どう考えても、味方は背広男だ。1秒の猶予もない。今だ。
「ぐはっ」
 ガマがカエルのような声をあげ、拳銃を落とした。眉間のあたりを手で押さえている。紫郎が投げた10フラン銀貨が命中したのだ。背広男はすぐさまガマのみぞおちにダメ押しの突きをお見舞いし、さらに返す刀でスキンヘッドに胴を1発、面を2発打ち込んだ。あっと言う間の早業だった。ポン・ヌフの上から様子をうかがっていた男はあわててアンリ4世の騎馬像の方へ逃げ出していった。
「川添君、怪我はないか?」
「え、ええ、大丈夫です。あの、あなたは……」
「鮫島だ。鮫島一郎。満鉄の欧州事務所に雇われている」と背広男は言った。
「満鉄? 満鉄の方がどうして僕の……」と言って、後にどう言葉を継いだものかと思案して、紫郎は口ごもった。
「ははは。どうして後を尾けたりしたんですかって言いたいんだろう。頼まれたんだよ。君の実のお母さんにね。とりあえず、ここから立ち去ろう。彼らが目を覚ますと厄介だ」と鮫島が言った。

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