AKB48の軌跡を辿る 第1回:結成から初の『紅白』出場まで、秋葉原で生まれたアイドルの黎明期

 5月23日に結成15周年記念の単独コンサートを終えたアイドルグループ、AKB48。同コンサートは柏木由紀演出のもと、「48曲ノンストップライブ」に初挑戦。また9月29日にリリースする58枚目のシングル曲では、姉妹グループは参加せずにAKB48メンバーのみで歌唱することを発表。これは19枚目のシングル『チャンスの順番』以来、約10年ぶりのことだ。5月28日には、「最後の1期生」である峯岸みなみがAKB48劇場公演をもって卒業。7月からは、自虐的なタイトルが話題の新番組『乃木坂に、越されました。~崖っぷちAKB48の大逆襲~(仮)』がテレビ東京でスタートする。

 15周年の区切りが過ぎて、AKB48は変革の兆しを見せはじめた。今回の短期連載では、グループの今後に期待を込める意味でこれまでの軌跡をまとめていく。第1回は結成から紅白初出場までを振り返る。

秋葉原の街とともにあったAKB48

AKB48『SET LIST~グレイテストソングス 2006-2007~』

 2021年4月6日、秋葉原の街で大きな変化があった。ドン・キホーテ秋葉原店の外壁からAKB48グループの広告看板が取り外されたのだ。秋葉原の象徴だったAKB48の外壁広告が姿を消したことは衝撃を集めたとともに、このコロナ禍、グループとしていろんな変化が生じていることを想像させた。

 そもそもAKB48はなぜ秋葉原を拠点としたのか。プロデューサーの秋元康らは、新アイドルグループをはじめるにあたり、プラットフォームとなる劇場の運営を考えるが、適当な場所がなかなか見つからなかったという。そんなときスタッフが、メイドカフェ、萌え文化が盛り上がりはじめていた秋葉原へ足を運び、ドン・キホーテ秋葉原店の上の階が空いていることを知る。秋元は早速、知り合いだったドン・キホーテの創業者・安田隆夫に交渉。場所を借りることができた。

 拠点が決まったことで、秋葉原の略称である「AKB」がグループ名に決まる。「48」という数字については、秋元はインタビューなどで「意味は特にない。商品開発番号のようにしたかった」と語っている。ジャーナリスト・田原総一朗との対談本『AKB48の戦略!秋元康の仕事術』(アスコム/2013年)でも秋元は、「自動車会社が試作車を開発番号で呼んで、覆面カーでテストを繰り返したりするでしょう。ああいう無機質な名前にしたいと」とコメントしている。

 AKB48には、まさにアイドルとしては試作的な女の子たちがメンバーとして集まった。しかしその後の彼女たちの活動は「無機質」という言葉とは一切無縁。あまりに生々しい感情があふれることになる。

いきなり4名が脱落、オタク文化と体育会系のミックス

 2005年7月から9月にかけて第1期オーディションがおこなわれ、24名が合格。そして2005年12月8日、ドン・キホーテ秋葉原店の8階でAKB48劇場がグランドオープン。開業初日の公演は、チームAによる『PARTYが始まるよ』。定員250人の劇場に駆けつけた観客は72人。ただしそのなかで関係者は65人、一般客は7人だとされている。当時のチケット料金は椅子席1000円、立ち見500円。そしてこの日のステージに立ったメンバーは20人。すでに4人が脱落していた。

 第1期生として初日公演に出演した前田敦子は雑誌『Quick Japan Vol.87』(太田出版/2009年)のインタビューで、この脱落した4人について「自分で辞退した子もいるし、『あれ? 来ないね』って言ってたらそのままいなくなっちゃったり。夏(まゆみ/振り付け・演出)先生がすっごい厳しくて、レッスンに一回無断欠席して、そのままクビになっちゃった子もいました。夏先生には『やれないんだったら帰れよ!』ぐらいのことを毎日言われていました」と振り返っている。AKB48の短期間での成長は、連日の劇場公演によって実戦感覚が培われたことだけではなく、ある意味で前時代的な体育会系の勢いとノリも影響していると考える。もちろんそれは良くも悪くもであり、ついていけない者が出るのも当然である。

『DOCUMENTARY of AKB48 1ミリの先』

 そもそも2000年代の日本は、インターネット掲示板発の『電車男』が社会現象となる一方で、ドラマや映画で『ROOKIES』が熱狂を巻き起こす世の中だった。オタク文化と体育会系という両極端なものが、多くの日本人のメンタリティに刺さって大ヒットした時代なのだ。AKB48はそのどちらの精神性も持っていたのではないだろうか。たとえば映画『DOCUMENTARY of AKB48 1ミリの先』(2011年)で、体調不良の高橋みなみを気づかった大島優子が、メンバーに「たかみなが具合ワリィんだから、ふざけてんじゃねぇぞ」とドヤしつける場面は、AKB48に流れていた雰囲気を分かりやすく表している。

 さて、2005年末にスタートしたAKB48だが、日を追うごとに集客は厳しくなった。客数がひと桁で、ステージ上のメンバーの数の方が上回ることもあった。書籍『AKB48ヒストリー 研究生公式教本』(集英社/2011年)で高橋みなみは、「ひとケタっていっても、劇場の奥に立ってる人もいましたからね。だから後ろの人はステージ上の私たちからは見えてないんです。その時は席にふたりだけ座っていて、幕が開いた時に『ふたり?』って。そこまでいくと“見られている”ことが恥ずかしくて」と思い返している。これが当時のAKB48の現実だった。

 それでも路上でのチラシ配りなど、メンバーの地道な宣伝活動が少しずつ実を結んでいく。さらにネット掲示板が流行し始めたことも追い風となった。口コミのスピードがこれまでもよりも速くなり、また規模も拡大したのだ。AKB48は時代の流れもあいまって、より弾みをつけていった。至近距離でアイドルとファンが交流できる、「会いに行けるアイドル」というコンセプトも話題になっていった。おそらく、あの秋元康が手がける楽曲を安価で楽しめる贅沢さももちろんあっただろう。

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