小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード5 パリーエッフェル塔 村井邦彦・吉田俊宏 作
エピソード5
パリーエッフェル塔 ♯3
アロンが「料金は要らない」と頑固に言い張ったから、紫郎は折れるしかなかった。代わりに「いつか君の著書が出たら必ず買うよ」と約束し、固く握手を交わして別れてきた。彼は修理工場を一人で切り盛りしているというアロンの友人テオからもらったベレー帽をかぶり、上着も脱いでセーターに着替えている。「シロー、まるで別人だ。これなら、もしあのベンツ男に見つかっても遠目には分からない」とアロンが太鼓判を押してくれた。その言葉を信じることにしよう。紫郎はゆっくりと歩いてエッフェル塔に向かった。
「フランス革命100周年を記念するパリ万博のシンボル塔として造られた」と記した立て看板を見て、紫郎はうなった。パリ万博? エッフェル塔は完成から45年もたっているのか。
当初はシンボルとして石の塔を建てる予定だったが、エッフェルという男の鉄塔案が大逆転で採用されたのだと書いてある。エッフェルは鉄の橋を造る名人だった。つまり地面と平行に架ける橋を垂直に立ててみた、ということか。発想の転換が大切だと分かってはいるが、実践するのは簡単ではない。エッフェルはうまくやったな、と紫郎は思った。フランスがアメリカに贈った「自由の女神」の鉄の骨組みもエッフェルが手がけたという。
展望室に昇るエレベーターの行列に、背の高い黒髪の女が並んでいた。地味な色のカーディガンを着て、長いスカートをはいている。あの背丈、自由の女神に負けない真っすぐな立ち姿、何よりもあの長い黒髪……。マルセイユで別れてから3カ月たっているが、後ろ姿だけで彼女と分かる。
「富士子さん、久しぶり」
ところが振り向いた女は別人だった。
「あら、あなたの言葉、日本語ね?」と女がフランス語で言った。
「し、失礼しました」。紫郎もフランス語で謝った。
年齢は富士子と変わらないように見えるが、切れ長の目、薄い唇、丸い鼻……。顔立ちはまるで違う。どうやら日本人ではないようだ。
「フジコって日本女性の名前よね?」と女が訊いた。
「ご、ごめんなさい。人違いでした」
「私はフジコさんによく似ているのね?」
「え、ええ、まあ……」
「私はアグネス。アグネス・ホー。香港から来ました」
「シロー・カワゾエです。船で一緒になった女性と間違えてしまって。ホーさん、大変失礼しました」
「アグネスと呼んでくれていいわよ、シローさん。あなたもエッフェル塔は初めて? 一緒に見物しませんか」
紫郎はパリで彫刻の勉強をしているというアグネスと一緒にエレベーターに乗り込んだ。展望室から見えるのは凱旋門、ルーヴル美術館、オペラ座、モンマルトルの丘……。ルノーとベンツのカーレースが何日も前の出来事のように感じられた。それにしても、こんな塔が東京に建てられたら、畏れ多くも宮城を見下ろすことになってしまうな、と紫郎は思った。
「この塔を建設する時、多くの知識人から反対の声が上がったそうよ。モーパッサン、デュマ、グノー、オペラ座を設計したガルニエ……。美しい景観を保ってきたパリに奇怪な鉄の塔など言語道断、無用な怪物だって」とアグネスが言った。
「実際に完成してみると、反対の声は消えていったんだろうね」
「最初は観光客が大挙してやってきたけど、だんだん下火になって、一時は取り壊される寸前だったそうよ」
「えっ、そうなの?」
「高い塔は無線電信に役立つと分かって生き延びたらしいわ。結局は軍事目的ね。それまでの軍事通信の主役は何だったか分かる?」
「えーっと、何だろうな。早馬じゃあ、古すぎるか」
「伝書鳩ですって。笑っちゃうでしょ?」
「ああ、なるほど。鳩から電波か。飛躍的な進歩だ。そういえばラジオ放送が始まったのもエッフェル塔のおかげらしいね」と紫郎は言った。アロンからの受け売りだった。
「ありがとう、シローさん。一人でこんな賑やかなところに来ちゃって、ちょっぴり寂しかったの。おかげで楽しかったわ」とアグネスが言った。
「こちらこそ、いきなり声をかけてしまって……」
「いいのよ。日本にもあなたのような人がいるのね」
「日本を憎んでいる?」
「さあ、どうかしら。シローさん、フジコさんに会えるといいわね」
「えっ?」
「その人のこと、好きなんでしょう?」
「い、いや、そんな……」
「長い黒髪で、私ぐらいの背丈の女性よね。年齢も私と同じくらいなんでしょう? 日本人はパリにたくさんいるけど、そういう条件なら限られてくるわね。あの女性かな。ラ・クーポールで2、3回見かけたことがあるのよ」
「ラ・クーポール?」
「モンパルナスのカフェよ。私も時々行くの。また私に会いたくなったらラ・クーポールを探してみてね。まあ、あなたの目当てはフジコさんでしょうけど」とアグネスは言って、目尻を下げて笑った。紫郎は「ラ・クーポール」という名前を心のメモに太字で刻んだ。
シテ・ユニヴェルシテール駅を出ると、目の前が東西に走るジュルダン通りだ。通りの北側はモンスーリ公園で、南側に留学生向けの学生寮が集積するシテ・ユニヴェルシテール(国際大学都市)の広大な敷地が広がっている。紫郎は寮に腰を落ち着けるつもりはなかったが、適当な住み家を見つけるまで、ここに滞在しようと決めていた。
公園のマロニエの木々は大半が色づき、落ち葉が風に舞っている。大学都市に続く石畳の道は薄暗く、寒々としていた。日本館はすぐに見つかった。「お城のような建物」とマルセルに聞かされていたが、城というよりは観光地の温泉宿にも見える。「和風」を意識しすぎて、和風のパロディーになっているような建物だ。
広い玄関ホールには、藤田嗣治画伯の巨大な馬の絵が架かっている。金屏風かと思ったが、近づいてよく見ると金箔を張った油絵だった。藤田画伯は昨年、帰国したと新聞で読んだ。紫郎とは入れ違いになったわけだ。
食堂に入ると、男が1人、コーヒーをすすりながら本を読んでいた。男前というよりは、童顔の優男だ。女性に人気がありそうだと紫郎は思った。ふいに男が顔を上げた。
「やあ、こんにちは。留学生の方ですか」と男が快活な声であいさつした。
「ええ、そうです。初めまして。東京から来た川添紫郎と申します。しばらくここに泊めてもらうつもりです」
「井上清一と申します。日本館の誰かに話を通してありますか。あいにく、この時間は係の人が出払っているもので……」
「東京の知人から連絡が行っていると思います」
「ああ、それなら安心ですね。お疲れでしょう。お好きなところに座っていてください。コーヒーを淹れてきますよ」
この井上という男には不思議な魅力がある。初めて会ったのに、何年も苦楽を共にしてきた仲間のように感じる。単に彼が人懐こい性格だからではない。基本的な波長が同じなのだと紫郎は直感した。何もかも彼に話してしまいたくなった。富士子に会った時と同じように。
紫郎は井上の横に座り、大きな柱時計を眺めながら話し始めた。左翼活動をして捕まり、パリ留学を条件に釈放されたこと、特高らしき男に尾行され、さっきまで車で追い回されていたことなど、幾つかを省略しながら、しかし事細かに打ち明けた。
身を乗り出して、何度もうなずきながら耳を傾けていた井上は、紫郎が長い話を終えると、フーッと長く息を吐いた。
「ああ、ごめんなさい。長々とつまらない身の上話をしてしまいましたね」と紫郎が苦笑いすると、井上は大きくかぶりを振って「い、いや、違うんです。同じなんですよ」と言った。
「同じ?」
「そう、全く同じなんです。僕は熊本の第五高等学校に通っていたのですが、やはり左翼運動で捕まって釈放された。その条件がパリ留学だったんですよ」と早口で嬉しそうに言った。
「ほ、本当に?」
「本当ですよ。それで建築を学ぶという名目でパリまでやって来たんですから」と井上は言って、笑いだした。
「それは愉快だなあ。実に愉快だ。井上さん、これからよろしく。僕のことはシローと呼んでください」
「シローさん、僕は友人からイノと呼ばれています」
「イノ、僕はシローでいいよ。さん付けは不要だ。同志じゃないか」
「うん、分かった。シロー、これからよろしく。ところで君はパリで何を勉強するの?」
紫郎は急に真顔になって10秒ほど沈黙し、窓の向こうのプラタナスの木々を見つめながら「映画だよ」と言って、冷めかけたコーヒーをブラックで一気に飲み干した。
■村井邦彦(むらい・くにひこ)
1967年ヴィッキーの「待ちくたびれた日曜日」で作曲家デビュー。1969年音楽出版社・アルファミュージックを設立。1977年にはアルファレコードを設立し、荒井由実、YMO、赤い鳥、ガロ、サーカス、吉田美奈子など、多くのアーティストをプロデュース。「翼をください」、「虹と雪のバラード」、「エメラルドの伝説」、「白いサンゴ礁」、「夜と朝のあいだに」、「つばめが来る頃」、「スカイレストラン」ほか、数多くの作曲を手がけた。2017年に作家活動50周年を迎えた。
■吉田俊宏(よしだ・としひろ)日本経済新聞社編集委員
1963年長崎市生まれ。神奈川県平塚市育ち。早稲田大学卒業。86年日本経済新聞社入社。奈良支局長、文化部紙面担当部長などを経て、2012年から現職。長年にわたって文化部でポピュラー音楽を中心に取材。インタビューした相手はブライアン・ウィルソン、スティーヴィー・ワンダー、スティング、ライオネル・リッチー、ジャクソン・ブラウン、ジャネット・ジャクソン、ジュリエット・グレコ、ミシェル・ペトルチアーニ、渡辺貞夫、阿久悠、小田和正、矢沢永吉、高橋幸宏、松任谷由実ほか多数。クイーンのファンでCDのライナーノーツも執筆。