小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード5 パリーエッフェル塔 村井邦彦・吉田俊宏 作
エピソード5
パリーエッフェル塔 ♯2
「おい、お客さん。大丈夫か」
何十秒、いや何分たっただろうか。紫郎は朦朧とした視界の焦点を合わせようと、何度か頭を振った。ルノーは相変わらず唸り声をあげ、先を走る車を次々と追い抜いている。
「目が覚めたかい。ここは右岸のフォッシュ通り。正面に見えるのが凱旋門だ。あそこで右に行くから、今度は頭をぶつけないように頼むよ。ベンツはアルマ橋を渡ったあたりで振り切ったつもりだが、この直線でまた追いついてくるかもしれない」
「それじゃあ、切りがない」
「ははは、まあ見ていろ。ところで、あんたは中国人かい?」
「いや、日本人だよ」
「日本人か……。おれはアロン。パリ生まれのモーリス・アロンだ」
「僕はシロー・カワゾエ。いつからタクシーの運転手をやっているの? これは違法のタクシーだよねえ」
「おいおい、はっきり言ってくれるね。おれはパリの高等師範学校を出て、大学で哲学の講師をやっていたんだ」
「エリートというわけか」
「そのエリート様が、この不景気で白タクの運転手さ。しかし、なかなか面白い商売だぞ。何しろ……」
アロンがバックミラーを見て舌打ちをした。ベンツが猛スピードで迫ってきていた。
「飛ばすぞ」
「君を信じるよ、モーリス」
「信じる者は救われるさ」
アロンがさらにアクセルを踏み込むと、ルノーはまた咳き込むような音を一つたてた後、さらに加速した。
「おれは4年間ベルリンに留学していた。6月に戻ってきたんだ」とアロンが言った。けたたましいエンジンの音に対抗して、ほとんど怒鳴るように話している。
「ベルリンでも哲学の勉強を?」
「いや、マルクス主義とファシズムの研究をやった。そのうちにナチスの脅威が身に迫ってきて、パリに逃げ帰ってきたんだ。おれはユダヤ人だからね」
「マルクス主義はファシズムに対抗できると思う?」
紫郎の質問に答える間もなく、アロンはほとんど減速せずに凱旋門に突進し、ぎりぎりのところでハンドルを右に切った。のろのろと走っていた車がルノーを避けて急停車し、もう1台は一回転して別の車に激突する寸前で止まった。
この凱旋門を中心に12本の通りが放射状に延びている。ルノーは車体を大きく左に傾けながら、右にカーブした。地面をとらえているのは左側の車輪だけで、右側の車輪は何センチか宙に浮いているに違いないと紫郎は思った。ルノーはマロニエの並木にはさまれたシャンゼリゼ通りを直進した。
「シロー、さっき何と言った?」
「マルクス主義はファシズムに……」
「そうだった。ファシズムも共産主義も同じだよ」
「なぜ、そう思う?」
「ヒトラーを信じるのがファシズム、スターリンを信じるのが共産主義。その下には鉄壁の軍隊と官僚組織が形成される。ヒトラーやスターリンを信じない者は逮捕され、どこかにぶち込まれる。乱暴にいえば、そんなところだろう?」
「乱暴すぎるね」
「乱暴なのはあいつらの方だ。今に分かるよ。とにかく、どちらも個人の自由が保障されていない。それが最大の問題さ。シロー、あれがルーヴル美術館だ」
ルノーはルーヴルを左に、セーヌを右に見ながら飛ぶように走った。
「個人の自由か。なるほどね。僕は日本で……」
そこまで話したところで、紫郎の視界から前の道がフッと消えた。鳩の群れを蹴散らし、マロニエの落ち葉を大量に巻き上げながら、ルノーは正確に90度の角度で左に折れ曲がった。そのまま狭い門をくぐり抜けてルーヴルの中庭を猛然と突っ走り、さらにもう一度門をくぐって、広い通りへと躍り出た。
「ええっと、シローは日本で何をしたって?」とアロンが叫んだ。
「左翼運動に加わって逮捕された。仲間が僕の家に隠しておいたマルクスやレーニンの本が見つかってしまったんだよ」と紫郎も負けずに叫んだ。
「あははは。そいつはいい。共産主義もダメだが、逮捕するやつはもっとダメだ。どんなにダメな本であろうとも、その本を書いたり、売ったり、読んだりする自由は保障されなくてはいけない。その自由がない社会はすべてダメなんだよ。シロー、正面の奥に見えるのがオペラ座だ」
「やっぱりモンテカルロ歌劇場に似ているね」
「ああ、設計者が同じだからな。シローはモンテカルロに行ったことがあるのか?」
「カンヌの知人の家に3カ月ぐらい泊めてもらっていたんだ。コート・ダジュールのあちこちに行ったよ。ところでモーリス、あのオペラ座の地下には、本当に湖があるのかい?」
「ははは、シローは『オペラ座の怪人』を読んだんだな。おれは見たことはないが、本当らしいぞ。パリの地下は採石場だったんだ。この街の地面の下にどれだけの穴や坑道があるか、分かったもんじゃない」
ルノーはタイヤをきしませながら右に曲がり、すぐに左に折れた。道を渡ろうとした年寄りの男が、ブレーキもかけずに突進してくる車に驚いて尻もちをついた。バゲットと果物が歩道に転がった。
「おいおい、モーリス。事故は困るよ。警察に捕まったら元も子もない」
「言っただろう。おれを信じろって。のろのろ歩きの爺さんをよけるなんて朝飯前さ」
「あんたもファシストと同じだな」
「一緒にするな。ファシストはよけたりしない」
2人はバックミラーで互いの目を見て笑った。
「それにしてもシローは逮捕されたっていうのに、よくフランスに来られたな」
「フランス留学が釈放の条件だったんだ」
「日本では左翼の活動家をフランスに留学させるのが流行っているのか? おれが白タクを始めたころに乗せた日本人の若い女も同じようなことを言っていたな」とアロンがまた怒鳴るような声で言った。
「日本人の……若い女だって? どんな女だ。名前は訊いたのか?」
「なんだよ、心当たりがあるのか?」
「富士子って言っていなかったか。フジコ・モリタだ。いや、フジコ・ハヤシダと名乗ったかもしれない」
「いやあ、名前までは訊かなかったなあ。おれは紳士だからな。長い黒髪と大きな目が印象に残っているが……。誰か偉い人に結婚を迫られて困っているとか、そんなことを言っていたな。結婚すれば、お兄さんを解放してやるとか。それは卑怯なやり方だなって、おれも怒った記憶がある」
長い黒髪と大きな目の日本人か。間違いない。富士子だ。彼女の兄貴は左翼運動で逮捕されたと村上が言っていたから、話の辻褄も合う。すると彼女を追っていた痩せぎすの男は誰なのだ。特高警察ではなかったのか。
「その女をどこで降ろした?」
「シローと同じようにリヨン駅で乗せて、日本大使館まで送ったよ」
「た、大使館?」
「ああ、知り合いがいると言って……」
50メートルくらい先の左手の路地から、ベンツが飛び出してきた。
「ちっ、なぜ分かったんだ。先回りしやがった」とアロンは叫び、急ブレーキをかけた。紫郎は助手席の背もたれに頭を打ちつけた。
アロンはすぐさまギヤをバックに入れ、猛スピードで後退しながらクラッチを踏み、今度はローに入れた。そのままアクセルをべったりと踏み込んで、右の細い道に突っ込んでいった。
「よし、モンマルトルの丘で勝負をつけてやる。くねくねと曲がった道なら、おれのハンドルさばきと小型の車体が物を言うはずだ」
ルノーはほとんど車1台分の幅しかない路地を全速力で疾走した。軒先に放置されていた植木鉢をよけた瞬間、トタン塀を竹ぼうきでこすったような音がしたが、アロンはスピードを緩めずに路地を抜けていく。曲がりくねった石畳の細い坂道を上ったところでルノーは急停車した。
「モーリス、どうした? きっと、まだ追ってくるぞ」
「アイデアがある。やつらは頭もいい。おれたちが頂上のサクレ・クール寺院を目指していると予想しているはずだ。ひとまずそこの路地に隠れてベンツをやり過ごす。ベンツが坂を上っていったら、こっちは一目散に坂を下りていくのさ」
「うん、名案だ。君に任せたよ、モーリス」
ところがアロンがギヤをバックに入れようとしても、シフトレバーが何かにつかえてうまく入らない。彼はクラッチを踏みつけままアクセルを踏み込んだ。エンジンの回転数がぐんぐん上がっていく。すると氷をガリッと噛み砕いたような音を立ててレバーが動き、ようやくバックに収まった。
「よし、隠れるぞ」
アロンはルノーを勢いよく後退させ、細い路地の奥に入っていった。外に張り出していたカフェの椅子を2つばかりなぎ倒したが、店から誰か出てくる気配はなかった。
「ここなら見つかるまい。ところでシロー、あのベンツのやつらは本当に警察なのか。わざわざ日本からあんた1人を追ってきたっていうのか?」
「うーむ。たぶんフランスに駐在している特別高等警察の関係者じゃないかと思うんだけどね。とにかくマルセイユからカンヌに行く時も同じ男に尾行されたんだ」
「警察が本気で追っているのなら、カンヌで拘束できたはずだ。何かの理由で監視しているのかもしれないな」
「か、監視ねえ……」
「実はあんたも結婚を迫られているんじゃないのか?」
「あの男に……か?」と言って紫郎は笑った。
向こうの通りをベンツが走っていくのが見えた。後部座席にいる例の男はYシャツの上に薄手のコートを羽織り、正面をにらんでいた。こちらに気づいた気配はない。紫郎はフーッと大きく息を吐いた。
「よし、引き返そう。この後は人の多いところに行くといい。追っ手から姿を隠すには、人ごみに紛れるのがいちばんだ」とアロンが言った。
ルノーはモンマルトルの丘を下り、グラン・パレとプティ・パレの間を抜けてアレクサンドル三世橋を渡り、エッフェル塔近くの路地に入っていった。街路樹はすでに半分ほど葉を落とし、灰色の空に向かって針金のような枝を伸ばしている。ベンチで一休みする老夫婦がぼんやりと近くの教会の十字架を眺めていた。
ルノーは小さな自動車修理工場の門に入った。ガソリンと鉄とカビの匂いがする。さっきの教会からくぐもった鐘の音が聞こえてきた。
「さあ、降りよう。古くからの友達がやっている工場だ」とアロンが言った。ルノーの車体には何本かの釘で引っ掻いたような傷がついていた。
「ずいぶん傷がついてしまったね。このぐらいの傷で済んでよかったと言うべきかな」と紫郎が言った。
「気にしないでくれ。シロー、実はおれも追われた経験があるんだ。いや、追われていると思った経験というべきかな」
「ドイツで?」
「ああ、ナチスにね。おれはユダヤ人で、パリに逃げ帰ってきたって言っただろう」
「追われていると思ったら、実際はそうではなかったということ?」
「それがよく分からないんだ。実はまだ追われているのかもしれないし、ずっと監視されているのかもしれない。不気味だろう? だからシロー、あんたの話を聞いていたら他人事とは思えなくなったんだよ」とアロンは車の傷をなでながら言った。
「そういうことか。君は将来、哲学者になるのかい?」
「どうだろう。高等師範学校の同級生にサルトルっていう男がいるんだが、きっとあいつは哲学者になるだろうな。しかし頭は切れるのに、融通がきかないんだよ。あることを信じたら、それを疑おうとしない」
「一本、筋が通っていて、常にブレないのは良いことじゃないのか」と紫郎が言った。
「世の中は常に変化する。ブレない人間なんて、世の中が見えていない愚か者だ」
「世の中が変わっても、変わらない真理もあるはずだよ」と紫郎は畳みかけた。
「おれは少年時代に世界大戦を経験しているんだ。親父は戦死した。もう戦争なんてこりごりだと思ったよ。平和がいちばんだ。これは疑いのない真理だよな」
「僕もそう思う。平和がいちばん。戦争なんて真っ平ごめんだ」
「そうだよな。おれは軍縮を進めて、世界から軍隊を一掃すれば平和が訪れると信じていた。しかし、ドイツに行って現実を知ったよ。圧倒的な軍事力を持った連中が、しかも正義とか人間の尊厳とか、個人の自由とか……、そんなことなど全く意に介さない連中が問答無用で善良な市民を拘束するんだぞ。ただユダヤ人だというだけでね。誰がこの身を守ってくれるんだ。フランスの警察か? フランスの国家か? ヒトラーの軍隊がフランスに攻め込んできたら、すべて蹂躙されてしまうだろうな。そんなことはあり得ないって、誰が言える?」とアロンが政治家の演説のような調子でまくしたてた。
「つまり、フランスはドイツに負けない軍事力を持つべきだと考えているわけだね」と紫郎が訊くと、アロンは「言いたくはないが、そういうことさ。平和がいちばんだと思っているのに、全く矛盾した話だが、哲学者も現実を見据えて臨機応変に考えなくてはならないってことかな……」と力なく答えた。
「それは哲学とはまた違う話じゃないのかな」
「ああ、そうかもしれん。哲学とは何か……。折に触れて原点に立ち返り、そこから考え始めるのが哲学者のいいところかもしれないが、結局、いつもそうやって現実から離れていくんだ。今やそんな悠長な議論をしている暇はないんだよ」
「あのスピード狂の運転もそのせっかちさから来ているんだね」と紫郎が笑うと「参ったなあ、シローには負けたよ。チェックメイトだ」とアロンも笑った。