Creepy Nuts、『かつて天才だった俺たちへ』はマスリスナーに応える作品に リリックと視点の変化から紐解く

Creepy Nuts最新作の肯定のメッセージ

 前作となる『よふかしのうた』のリリースからの一年間を振り返ると、グループとしてのツアーに加えて、DJ松永のDMCワールドチャンプ戴冠、R-指定の数々の客演仕事や日本語ラップを解説した著作『Rの異常な愛情ー或る男の日本語ラップについての妄想ー』(白夜書房刊)の刊行など、それぞれのソロとしての活動も顕著だったCreepy Nuts。また、音楽現場以外の活動(それはもちろん音楽活動と紐付いているのだが)としても、彼らのメディア的な主戦場とも言えるレギュラーラジオ番組『オールナイトニッポン0(ZERO)』(ニッポン放送)に加えて、『勇者ああああ~ゲーム知識ゼロでもなんとなく見られるゲーム番組~』(テレビ東京系)や『華丸大吉&千鳥のテッパンいただきます!』(フジテレビ系)など、数々のテレビ出演も果たし、ヒップホップシーンだけではなく、音楽シーンという大きな枠組みで見ても、その存在感とキャラクターは、デビュー当時とは比較にならないほどの大きな需要を生み出している。その現状においての結実が、9月4日の『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)へのCreepy Nuts×菅田将暉「サントラ」での出演という、音楽シーンにおける「称号」の獲得だろう。

Creepy Nuts × 菅田将暉 / サントラ【MV】

 そして、その「サントラ」が収録されたCreepy Nutsの新作となる『かつて天才だった俺たちへ』もまた、広範な需要、いわばマスリスナーに応える作品となっている。ただ「ポップさ」という部分を担保しているのは、「サントラ」のような、わかりやすく言えば『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』や『VIVA LA ROCK』といったロックフェスと親和性の高いサウンドや、スウィングジャズな「かつて天才だった俺たちへ」、メロウなギターリフが印象的な「Dr.フランケンシュタイン」といったDJ松永が手掛けるトラックに依る部分が大きい(同時にグライムチックな「耳無し芳一Style」など、ハードなトラックがあるのというのも、一筋縄ではいかない部分だ)。一方でR-指定のリリックは、例えば歌詞の内容をポップミュージックの基本であるラブソングを中心にしたり、という意味での「おもねり」はないし、むしろ相変わらず恋愛の「れ」の字もない歌詞は、今回も自意識に向かい、広範なリスナーをあえて狙ったという方向性は感じさせない。確かに、菅田将暉という当代きっての人気若手俳優とのコラボ、という、パッケージとしてはR-指定いわく「チート」的なアプローチはあるが(音楽ナタリーでのインタビューでの発言)、その曲で表現されるのも、これまでのCreepy Nuts作品と同じように自己、自意識、自我、自認、といった「自分のありかた」がテーマだ。

 では、なぜ広範な需要に応えるような作品になっていると感じたのか。それは「主語」の問題だろう。今作のリードである「かつて天才だった俺たちへ」は、「俺たち」という一人称複数代名詞を主語にしているが、それはR-指定とDJ松永の二人のみを指しての「俺たち」ではなく、当然ながらリスナーも含めた「俺たち」であることは、楽曲を聴けば明白に理解できるだろう。そしてその「俺たち」の範囲は、極端に言えば「全人類」に設定されている。

Creepy Nuts / かつて天才だった俺たちへ【MV】

 Creepy Nuts楽曲の「俺」や「俺たち」という主語は、Dragon Ash featuring Aco, Zeebra「Grateful Days」のZeebraのヴァース〈俺は東京生まれHIP HOP育ち〉に代表されるような、自分自身をそのまま語る、いわゆるヒップホップ的な「オレ語り」ではなく、「俺」という一人称の中に「リスナー」も含んできた。例えば「だがそれでいい」は、R-指定の自分史が色濃くリリックに塗り込められているが、同時に「同じような境遇だったリスナー」が、その歌詞に自己投影出来るような仕組みになっている。同じように「助演男優賞」も、R-指定とDJ松永のタッグの物語を落とし込んではいるが、フックは「集団における非主流派」がシンパシーを覚える内容になっている。その意味では、極端に言えば、「スクールカースト低層あるある」「陰キャあるある」のような、「あるある」的な表現にあえて寄せているだろうし、〈俺は東京生まれHIP HOP育ち〉のような、それを「あるある」と感じられる人間が極端に少なくなるような表現はしていない。

Creepy Nuts(R-指定&DJ松永) / 助演男優賞【MV】

 つまり、ある種の「マイノリティ」に向けたリリックや、「陰キャ」とともに進むような方向性が、Creepy Nutsの歌詞の特徴の一つではあった。しかし今回の「かつて天才だった俺たちへ」に関して言えば、そういったマイノリティやマジョリティといった枠組みを超えた、超広範な対象を「天才」として鼓舞しようとしている。それがこの曲の特徴だろう。

 同時に、その対象が超広範囲であるからこそ、逆説的にその対象は他でもない、「かつて天才だった俺たちへ」を聴く、「あなた」にだけ向けられる。それは、「否定」を無限に続けていき、その否定が究極にまで到達したときに、それが「肯定」へと反転するように。そういった構造性を、「かつて天才だった俺たちへ」は持っている。その構造性をこの曲に持たせたのは意図的なのか否かは本人に聞くほかないが、その意味でも、リリックの持つ性質が変わったことが理解出来る。

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