THE YELLOW MONKEYがライブバンドとして成し遂げた偉業 現場スタッフが明かす、90年代の最盛期~解散までの舞台裏

THE YELLOW MONKEYがライブバンドとして成し遂げた偉業 現場スタッフが明かす、90年代の最盛期~解散までの舞台裏

 THE YELLOW MONKEYが「日本が世界に誇る、最高峰のライブバンド」であることは、一度でも彼らのステージを観たことがある者ならご同意いただけるはずだ。90年代に彼らの魅力にハマった人のみならず、2016年の再集結以降に彼らを知った者(そこには、2001年からの“空白の15年”の間にTHE YELLOW MONKEYと出会った後追いリスナーも含まれる)まで、その中毒性の高いライブサウンドとステージパフォーマンスにほんの一瞬でも生で触れたら最後、「また観たい!」とリピーターを増やし続けてきた結果、THE YELLOW MONKEYというライブバンドが持つパブリックイメージが形成されたと言える。

THE YELLOW MONKEY – 3分で分かるイエローモンキー

 事実、彼らは2016年の再集結以降、いくつもの全国ツアーを行っている。ライブがバンドを作るというごく当たり前の行為を経て、THE YELLOW MONKEYは再集結から3年以上もの歳月を経てニューアルバム『9999』を完成させたのだから、いかにライブやツアーという活動がバンドを成長させるうえで必要不可欠な要素であるかが伺えるだろう。

 THE YELLOW MONKEYは現メンバーでの初ライブから30周年を迎える記念すべき日、2019年12月28日からナゴヤドームを皮切りに全国ドームツアー『THE YELLOW MONKEY 30th Anniversary DOME TOUR』を開始。年明け2020年4月4日、5日の東京ドーム2DAYS公演をもって、再集結以降の“シーズン2”にひと区切りつける予定だ。リアルサウンドではこのツアーを目前に、90年代から現在に至るまでバンドを内側から支えてきたスタッフ、全国各地でツアーをサポートしてきたイベンタースタッフの証言を交えつつ、「ライブバンドTHE YELLOW MONKEY」の魅力に迫るコラムを計2回にわたり掲載。その第1回目となる今回は、バンドのデビュー前夜から活動休止前最後のライブとなった2001年1月8日の東京ドーム公演までの10数年で、THE YELLOW MONKEYがどのようにして最強のライブバンドへと成長していったのか、その秘密に迫る。(トップ写真=PUNCH DRUNKARD TOUR/撮影:有賀 幹夫)

La.mamaから武道館へ 〜セールスが動員に追いつくまで〜

1991年 La.mama/撮影:長田 栄子

 吉井和哉(Vo/Gt)、菊地英昭(Gt/以下、エマ)、廣瀬洋一(Ba/以下、ヒーセ)、菊地英二(Dr/以下、アニー)の4人が勢揃いし、当時のホームグラウンドだった渋谷La.mamaで初ライブを行ったのが1989年12月28日のこと。この日をバンドの誕生日として、これまでもこの日は『メカラ  ウロコ』など印象的なライブが行われてきた。

 当時、La.mamaの店長としてTHE YELLOW MONKEY結成前からメンバー4人と接してきた、株式会社BAJの大森常正氏はこの頃を振り返り「当時、元KILLER MAY(エマ、アニー)、元URGH POLICE(吉井)、元MURBAS(ヒーセ)と、すでにおのおの人気があったので、最初からお客さんは多かったけど、ライブで曲を聴くと何がやりたいのかよくわからなかった(笑)」と語る。

「それはテクニック的なところで追いついていないのと、吉井がやりたいことをほかの3人があまり理解できていなかったのも大きくて。目標が見えなくて、なんとなくやっていたんでしょうね。だけど、1991年にインディーズ盤の『BUNCHED BIRTH』を作ったとき、1曲ずつ詰めていくことでメンバーが理解できるようになった。そうすると、お客さんも「ああ、そういうことだったんですね」と理解が追いつく。僕もそうでしたもの。そこから一気に、人気がポンと上がりましたね」(大森氏)

 メジャーデビュー時からライブ制作に携わり、THE YELLOW MONKEYのステージを見守り続けてきた株式会社ソーゴー東京の倉茂得光氏も、メジャーデビュー直前のショーケースライブ(1992年4月14日、渋谷CLUB QUATTRO)で初めて観た彼らのライブの印象を教えてくれた。

「クアトロってステージが高いじゃないですか。で、彼らもタッパがあって、しかも派手で濃いメイクをしていたので『なんやこのバンドは!?』とびっくりして、あっけにとられた事を思い出します。なかなかいそうでいないタイプのバンドだなとも思いました。でも、このライブがきっかけとなってメジャーデビュー後一発目のライブであるON AIR(1992年7月30日、現在のTSUTAYA O-EAST)につながって、僕もイベンターとして正式に彼らのツアーを手がけることになるんです」(倉茂氏)

 1992〜1994年頃のTHE YELLOW MONKEYは決してCDセールス面で恵まれていたわけではなかった。しかし、一方でライブバンドとしての彼らは地道なライブ活動が功を奏し、1993年には日本青年館や中野サンプラザ、1994年には渋谷公会堂や大阪厚生年金会館など各地でホール公演を成功させ始める。筆者もこの頃、初めてTHE YELLOW MONKEYのライブを体験するのだが、それがのちに映像作品化もされた1993年6月19日の日本青年館公演『Life Time・SCREEN〜追憶の銀幕〜』だったことも非常に大きなインパクトを残す結果となった。

「今だったらLEDスクリーンやプロジェクターを使った映像演出は当たり前ですけど、当時はそういうものがなくて。それこそステージ前に紗幕を垂らして、フィルム映写機を使って映像を流していた時代。あの日本青年館はそこから『MORALITY SLAVE』でライブが始まるんですが、幕が開くと袋をかぶったトップレスの女性2名が十字架に張り付けられているという濃い演出で(笑)。案の定、お客さんはドン引きだったんですが、今となっては記憶に残るライブですよね」(倉茂氏)

「のちにMarilyn Mansonが登場したとき、ステージ上で竹馬に乗る演出があったじゃないですか。あれについて吉井と話したとき、本当はこういうこと、やりたかったんだよね。『先にやられちゃったなあ』と言っていたことをよく覚えています。絶対先に思いついているんだけど、お金もなかったしどうにもならなかったから。そういう演出に関するアイデアは、かなり早い段階から吉井の中にあって、それをステージ制作にかけられる予算が増えるにつれ少しずつ実現させていったわけです」(大森氏)

「吉井の頭の中、メンバーの頭の中、マネジメントの大森さんの頭の中にあるものをバンドと話しながら決めていったんでしょう。そういった演出やライブの様子が見事に口コミで広まり、動員拡大につながっていったのかな。特に『jaguar hard pain』の時期は、1枚のアルバムで3ツアーを行っているんですよ。あの作品自体がコンセプトアルバムでしたし、まるでドラマでも観るかのように『次の展開はどうなるの?』と話題になった結果でしょうね」(倉茂氏)

 そんなTHE YELLOW MONKEYにとって大きな転機が訪れる。1995年2月リリースのメジャー4thアルバム『smile』が初のチャートトップ10入りを果たし、『TOUR ’95 “LOVE COMMUNICATION”』の一環として同年4月11日に初の日本武道館公演を敢行。見事ソールドアウトを達成させる。

「『smile』あたりからCDも売れ出したのかな。それまでは、THE YELLOW MONKEYってCDはあんまり売れてないけどライブは入るよねっていうイメージでした。でも、本人とは話したことはないですけど、実はあの頃の吉井は『jaguar hard pain』の決着は武道館でつけたい、という思いもあったんじゃないかな。だけど、こちら側が武道館のスケジュールを出せなかった。メンバーもすごく悔しがってましたよ。『jaguar hard pain』を武道館で日の丸の下でやることは、意味合いとしてはかなり深いものがありましたし。そこから『smile』でセールス的にも合格点に達して、武道館も即日完売。大きな転換期でしたね」(倉茂氏)

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