『関心領域』にはなぜ英語のセリフがないのか? 英語圏の“非英語作品”を考える
第96回アカデミー賞で作品賞、監督賞、国際長編映画賞を含む5部門にノミネートされ、国際長編映画賞・音響賞を受賞した『関心領域』が、5月24日に日本公開された。
マーティン・エイミスの小説を原作とする同作は、ホロコーストを加害者側の視点から描いた珍しい作品である。原作ではパウル・ドルという別名になっているが、映画ではモデルになったアウシュヴィッツ強制収容所所長のルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスがそのまま実名で登場する。BGMがほとんど使われない禁欲的な作りで、収容所併設のプール付き一軒家で日常を送るヘス一家と、塀の向こうで姿が見えない収容所内から聞こえてくる残虐行為の音が対位法を成している。一般的に映画の対位法と言えば、悲しい場面で明るい音楽を流す、暴力的な場面で楽しい音楽を流すなどのBGMありきの手法だが、同作の演出はSE音の対位法とも呼べる斬新な表現だった。
ジョナサン・グレイザー監督はロングショットを多用しており、ロングショットと動きの少ない長回しからくる体温の低さが残虐性を際立たせている。映画の描写は終始客観的で淡々としており、ドイツ人ではない=当事者ではない、外国人のグレイザーだからこそできたのかもしれない。
さて、『関心領域』はイギリス人の監督、脚本、原作によるものだが、本編中英語のセリフは一言もない。ドイツ人はドイツ語を話し、ポーランド人はポーランド語とイディッシュ語を話す。ドイツ語の話者数はおよそ9900万人ほどと推定されており、世界的にも話者数の多い言語だが、英語の話者数およそ15億3100万人と比べるとあまりにも分が悪い。英語圏はアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランドなど経済的に豊かな国が多く、マーケティングのことを考えると、どこを舞台にしようと英語で製作した方が明らかに有利である。
最近の大作映画だとリドリー・スコット監督の『ナポレオン』はフランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトを主人公にした歴史映画だが、ナポレオンを演じるホアキン・フェニックスはアメリカ人で、もちろん全編英語である。アメリカ、イギリスなど英語圏のスター俳優がわざわざ他の言語で映像作品に出ることは珍しく、英語圏のマーケットを考えるとナポレオンやアレクサンドロス大王が英語を話すことに違和感を感じつつも、仕方がないこととも言える。
もちろん例外もあり、マルチリンガルのヴィゴ・モーテンセンは『アラトリステ』『偽りの人生』で全編スペイン語、『涙するまで、生きる』ではフランス語で演じている。フランス語が堪能なジョディ・フォスターは『ロング・エンゲージメント』で全編フランス語で演技しており、おなじくフランス語が堪能なジョン・マルコヴィッチはテレビシリーズの『レ・ミゼラブル』と映画『見出された時・「失われた時を求めて」より』で全編フランス語を話している。
英語圏で製作された作品にももちろん、『関心領域』のような例外はある。今回は英語圏の作品でありながら、あえて非英語作品として製作された例を挙げていく。
世界中を巻き込んだ重大事件「第二次世界大戦」
第二次世界大戦は20世紀の重大事件であり、映画でも頻繁に題材になる。しかし、その場合、主人公は連合国側(主にアメリカ)でありアメリカ軍の視点に偏ることが多い。敵国(枢軸国側)はあくまで脇役であり、英語以外の言語は使われることがあっても断片的である。
アメリカ、イギリスで枢軸国側を主人公にした映画が製作されることもあるが、全編英語であることが珍しくない。『戦争のはらわた』はドイツ軍の視点で描かれているが、全員英語を話している。アメリカ人ながらドイツ人の役を演じているジェームズ・コバーンはもちろん、ドイツ語ネイティブ(オーストリア出身)のマクシミリアン・シェルまで英語だ。『ワルキューレ』はドイツの軍人たちによるヒトラー暗殺未遂事件を題材にした作品だが、出演者の大半は英語圏の俳優で、もちろん全員英語で話す。こういった例は珍しくない。というより、大部分がそうと言った方がいいだろう。第二次世界大戦ではなく第一次世界大戦ではあるが、『西部戦線異状なし』はドイツ人の原作で登場人物の大部分がドイツ人だが、最初の映画化(1930年)、テレビ映画(1979年)は全編英語で、原作通り全員ドイツ語を話す映像作品がつくられたのは2022年版が初である。
このように第二次世界大戦を取り上げた映画が、英語市場にあわせて英語に“ローカライズ”されるのは普通のことだが、もちろん例外はある。
20世紀フォックスが製作した『史上最大の作戦』と『トラ・トラ・トラ!』はその古い例である。ヨーロッパ戦線における重要作戦“ノルマンディー上陸作戦(全体の作戦名はオーヴァーロード作戦)”を題材にした『史上最大の作戦』は英米独のパートでそれぞれ別々の監督が起用されており、作戦に関わった連合国側のアメリカ軍、イギリス軍、フランス軍、フランスのレジスタンス、枢軸国側のドイツ軍のそれぞれの視点から描かれている。アメリカ・イギリスの登場人物は英語、フランス人はフランス語、ドイツ人はドイツ語を話す。常識から言って当たり前なのだが、ハリウッド映画のスタンダードな表現を知った上で観ると、驚きのプロダクションである。
R指定の存在しない1962年の映画なので、兵士が撃たれても流血がなく、手足が吹き飛ぶようなゴア描写もない。同じくノルマンディー上陸作戦を題材にした『プライベート・ライアン』を観た後だと、あまりにも温い描写に見えてしまうが、本作は興行的にも批評的にも大成功を収めた。受賞はならなかったもののアカデミー賞の作品賞候補にもなっている。『クレオパトラ』の赤字で倒産しかけた20世紀FOXは本作で持ち直したとの話もあるほどである。
これに味をしめたのかは不明だが、太平洋戦線の重大事件“真珠湾攻撃”を題材にした『トラ・トラ・トラ!』も、アメリカ側の登場人物は英語、日本側の登場人物は日本語を話す。本作は制作体制を巡って当初の監督を依頼されていた黒澤明が降板し、日本側の監督として舛田利雄、深作欣二の両氏が急遽起用されたことでも映画ファンに知られる作品である。以降、世界のクロサワがハリウッド映画を監督することはなく、クロサワが監督していたらどうなったのか気になるところである。1970年の映画なので、もちろんCGはないが、当時最先端のアナログ特撮技術を使った真珠湾攻撃の場面は圧巻である。日米のパートでそれぞれ別の監督を起用しており、冷静で客観的な視点が貫かれている。
同じく第二次世界大戦を題材にした『イングロリアス・バスターズ』もアメリカ映画でありながら、英語以外の言語が大量に使われており、全編の半分以上が英語以外(ドイツ語、フランス語、イタリア語)である。ただし、視点ごとに監督を分業し、ノンフィクションを原作とした『史上最大の作戦』『トラ・トラ・トラ!』と違い、本作は強烈な作家性を持つクエンティン・タランティーノが1人で作り上げた作品である。ウィンストン・チャーチル、アドルフ・ヒトラー、ヨーゼフ・ゲッベルスなど実在の人物も登場するが、登場人物の大半が架空の人物で、架空の部隊、作戦を題材にしているため、史実と全く異なる展開で物語は幕を閉じる。当時、ドイツ語圏でもスターと呼べるほど有名ではなかったクリストフ・ヴァルツは本作でドイツ語、英語、フランス語、イタリア語を操るマルチリンガルぶりを見せ、アカデミー賞助演男優賞を受賞した。その後の彼の活躍は映画ファンであればご存じのことだろう。
また、本作は数少ないドイツ語ネイティブの俳優がヒトラーを演じた作品でもある。ドイツ人俳優のマルティン・ヴトケがヒトラーを演じているが、ヒトラーを演じたドイツ語ネイティブ俳優はブルーノ・ガンツ(スイス出身『ヒトラー 〜最期の12日間〜』)が初で、『イングロリアス・バスターズ』のほんの5年前、ヒトラーの死去59年後の公開作である。背景レベルの端役であればそれ以前にも例はあるようだが、やはりドイツ人、およびドイツ系にとってヒトラーを演じるのは禁忌に近い行為のようだ。筆者が調べた限りでは、他に『帰ってきたヒトラー』でヒトラーを演じたオリヴァー・マスッチぐらいしか例がない。ヒトラーが21世紀の現代にタイムスリップして騒動をおこす同作は風刺コメディであり、コメディだからこそ許されている側面もあるのかもしれない。
単独監督の作品でありながら、ほぼ全編が非英語の第二次世界大戦映画だと、『硫黄島からの手紙』も見逃せない。巨匠、クリント・イーストウッド監督は太平洋戦線の激戦だった硫黄島の戦いを、アメリカ側から描いた『父親たちの星条旗』と日本側から描いた『硫黄島からの手紙』の2作品で題材にした。より高く評価されたのはほぼ全編英語の『父親たちの星条旗』ではなく、ほぼ全編が日本語の『硫黄島からの手紙』だった。憲兵と特高警察を誤認するなど、一部気になる点もあるが、日本人が観てもほぼ違和感のない作品であり、オーソドックスに仕上がった良作である。外国語の映画でありながら、アカデミー賞では、作品賞、監督賞、脚本賞、音響編集賞の4部門で候補になった。のちに日本映画の『ドライブ・マイ・カー』が候補になったが、史上初の日本語のアカデミー賞作品賞候補作(国際長編部門ではなく作品部門)は本作である。
なお、ほぼ全編が日本語の非英語作品ではあるが、アメリカ資本のアメリカ映画であるため、規定によりアカデミー賞の外国語映画賞(現・国際長編映画賞)では候補対象外となった。