『あの花』から『アリスとテレスのまぼろし工場』へ 唯一無二の作家となった岡田麿里

作家・岡田麿里を読み解く

※本稿には『劇場版 花咲くいろは HOME SWEET HOME』『心が叫びたがってるんだ。』『さよならの朝に約束の花をかざろう』『空の青さを知る人よ』『泣きたい私は猫をかぶる』『アリスとテレスのまぼろし工場』『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』(文藝春秋)のネタバレがあります。ご注意ください。

「商業原則と私的な物語の両立」の系譜

 日本のアニメの歴史の中には、お客さんが喜ぶような商業原則に沿った内容を提供しつつ、そこに私的な物語を紛れ込ませる作家の系譜がある。たとえば、宮﨑駿は、『紅の豚』に、自分自身とスタジオジブリのあり方を投影した。庵野秀明は、『新世紀エヴァンゲリオン』で美少女とロボットを用いたアニメの中に、私的な実存を投影した。

 これは、かつてはロマンポルノや、Vシネなどで行われていたことと、よく似ている。たとえばロマンポルノでは、セックスシーンをある一定の時間ごとにある回数入れるなどの規定を満たせば、その他の部分においては作り手の自由が確保されていた。その自由を活かし、各々の芸術的な追求や、政治的な主張などがなされてきた。そこを培地にし、世界の芸術祭などで高く評価される作家たちがたくさん育っていった。

 岡田麿里は、その系譜に属する作家であると言えるかもしれない。彼女は、専門学校在学中に応募したシナリオが受賞し、デビューしている。それは、Vシネだった。

「やくざ映画が好きだった私は、Vシネマも何本か観ていた」
「谷崎を愛読していたことで、団鬼六や沼正三、マルキ・ド・サドやマゾッホなどのSM文学は読んでいた」(『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』(文藝春秋)p156 ※以下、本稿の引用はすべて本書より)
「とりあえず、レンタルビデオで借りられるエロVシネマやロマンポルノを観まくり、新たな刺激頭をくらくらさせながら一本をなんとか書き上げた」(p157)

 彼女の、最初期のキャリアはVシネから始まり、その後『とっとこハム太郎』などの子供向けアニメの脚本も手掛け、2000年代から「萌え」アニメに活動の中心を移していく。2005年に「萌え」が流行語大賞になるなど、90年代後半から2000年代にかけて、美少女ゲームや萌えアニメなどが急速に隆盛し、その中で彼女の仕事の場となっていく。それは、『こどものじかん』(2007年)のように、ソフトポルノ性が高いものであり、Vシネと似ていた。

 では、そのような、あるジャンルにおいて「お客さんを満足させる」条件を満たした上で、そこで得られる商業的な自由度を用いて彼女が語ろうとしたことは何なのだろうか。

 それは、シングルマザーの裕福ではない家庭で育ったことによる母娘の葛藤と、それと骨絡みになっている不登校・引きこもりの物語なのである。

私的な実存の問題――不登校・引きこもりと家庭の機能不全

 彼女の自伝『学校へ行けなかった私が『あの花』『ここさけ』を書くまで』によると、およそ小学5年生から高校3年生までの期間、岡田はかなり本格的な不登校と引きこもり生活を続けていた。

「登校拒否児生活を続けていくうち、私の中に『外の世界』という気分が生まれるようになった。外の世界というのは家の外であり、秩父の外であり。さらに、私以外の人達は皆が外の世界の住人だと感じていた」(p101)

 この感覚が、彼女のさまざまな作品に反映されている。特に、企画自体を自分で立ち上げ、監督とキャラクターデザイナーを指名した『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年、以下『あの花』)前後の、オリジナル性の強い作品に、その傾向は顕著である。『あの花』は、自分でしか書けないものを書こうとした作品であり、登校拒否児を主人公とした物語であった。

 監督作『さよならの朝に約束の花をかざろう』(2018年)、『アリスとテレスのまぼろし工場』(2023年)、原作・脚本を手掛けた『心が叫びたがってるんだ。』(2015年)、『空の青さを知る人よ』(2019年)、『泣きたい私は猫をかぶる』(2020年)、オリジナルではないが『花咲くいろは』(2011年〜2013年)などで、繰り返し、「閉ざされた町(など)から外に出ること」「母(あるいはその代理的な存在)と娘の葛藤」「表面上の言葉と本心が乖離する」などの問題系が変奏されていく。

『さよならの朝に約束の花をかざろう』©PROJECT MAQUIA

 母親は、「自由奔放」で「シングルマザー」で「彼氏がしょっちゅう変わる」(p212)人で、 母親の彼氏が暴れて、「殺すぞ」と言いながら家を破壊したこともあり、そのとき、岡田は命がけで物置部屋の中に隠れ続けた。実家は「数軒の長屋をコンクリで繋げ、それが風化して廃墟のようになった独特のルックス」(p224)。母親は「こんな子供、産まなけりゃよかった」「あんたさえいなけりゃ、私はもっと幸せだった」(p64)という言葉を彼女に浴びせ、「お前みたいな子供がいるのが恥ずかしい、殺す」(p66)と包丁を持ち出して襲ってきたこともある。

 2011年の『あの花』で不登校を萌えアニメのフォーマットを用いて物語化し表出したのと並行し、同じ年の『花咲くいろは』では母親と自身の葛藤を主題化する。

「遅ればせながら、自分なりに母親という存在を書いてみたい。/自分の母親を、そのまま投影させるつもりはなかった。むしろ、母親を見ていて『こうすればよかったんじゃないか』というところを描いてみたい」(p211)
「けれど、圧倒的に違うのは。〔作中に登場する母親の、引用者註〕皐月には『現状を打破できる力』があるのだ。/私の母親は、秩父に囚われていた。周囲の目を恐れていた。私に『産まなければよかった』などという恐ろしいセリフを言い放つぐらいなのに、別の人生を歩もうとはしなかった」「発想の出発点はこうだ。/私の母親が、車の免許をもっていたらどうなっていたのか?」(p212)

 不登校・引きこもりと、母娘や親子・家庭のテーマは、明らかに骨絡みである。親子のコミュニケーションの機能不全や、言葉が人を傷つけることへの恐怖心なども、本心と表面の言葉などが乖離するという岡田が好んで描く主題と深い結びつきを持っているだろう。

 このような不登校・引きこもり・機能不全家族の当事者である女性であり、それを表に出し、かつ、「萌え」などのソフトポルノ性や商業的条件と両立させる表現を行っているアニメ監督・脚本家として、彼女は極めて稀有な存在だろう。世界、あるいは日本の歴史上で似た例があるのかどうか、筆者に断言する能力はないが、管見の限りでは、極めて特異で重要な作家であるということは確かであると思われる。

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