吉沢亮はまぎれもなく“怪物” 『国宝』は“役者の快感”を体感できる唯一無二の一作に

現役の若手俳優が、のちに「国宝」と呼ばれるようになる歌舞伎の名優を演じるプレッシャーたるや、いかばかりのものだったか。しかも、侠客の一門に生まれながら、上方歌舞伎の名門に身を投じ、やがて名跡を継ぐまでの看板役者に成長する男のあまりに数奇な人生を、たった3時間弱で描きだす映画のなかで。
そう考えてしまうのは、やはり素人の浅はかさなのだろう。映画『キングダム』シリーズ(2019年~)では秦始皇帝の若き日を演じ、アニメ『空の青さを知る人よ』(2019年)では時の流れから切り離された高校生を演じ、NHK大河ドラマ『青天を衝け』(2021年)では渋沢栄一を演じた吉沢亮にとって、演じる役に対する「恐れ」など、もはや無意味なものなのかもしれない。むしろ、「自分にこの役を演じられるだろうか?」というスリルさえも、難局に挑むパワーに変えているのではないか。次作『ババンババンバンバンパイア』(2025年)では銭湯に勤める吸血鬼を演じていることを思えば、その勇敢さに空恐ろしさすら感じるほどだ。

そして、1人の「役者という“怪物”」の誕生と軌跡を描いた本作においては、これ以上にない適役だったと言える。
観客にとって『国宝』という作品は、「役者とは何か、どんな生きものなのか」を知るための最上の教科書とも言える。ただし、1960年代から始まる物語が描くのは、ひと昔前の「芸道」でもある。モラルや常識を身につけるよりも、芸を体に染み込ませるほうが優先される、江戸時代から地続きの世界だ。人の道を外れた行為も「芸の肥やし」とするような業深い生きざまには、コンプラ重視の現代では眉をひそめるような場面も多々あるだろう。いまの梨園でここまで激しい生き方を実践する者も少数派かもしれない。だが、時代や文化のありようを語り継ぐドラマとして、重要な描写であることは間違いない。

芸を磨くこと、スターであり続けることを守る一方で、私生活は大荒れという実例は数多存在する。華やかなスター街道を突き進んだ果てに、泥沼の家族間トラブルを招いたアラン・ドロンの悲しい晩年も思い出してほしい。
それでも女形役者は、美しく気高い「違う生きもの」のごとく、舞台に立つ。長崎の侠客の息子・立花喜久雄として生まれ、看板役者・花井東一郎として観衆の視線を一身に集める主人公のカリズマティックな姿を、吉沢亮は「ありのままに、そこに生きる」人物として体現する。その佇まいは、終生のライバルとなる師の息子・花井半也(横浜流星)も畏怖する“怪物”のごとき凄みを放つ。

血筋やしきたりが重んじられる伝統芸能の世界で、圧倒的な才能と技量をもってスターダムを駆け上がっていく者。良家の血筋を引きながら突如現れた天才の前に敗北し、どん底から這い上がっていく者。その栄光と挫折、天才と努力家の波乱に満ちた物語は『アマデウス』(1984年)も想起させる。そして本作も『アマデウス』同様、誰にでもわかりやすく作られているところに大きな価値がある。我々凡人も客席という安全圏から、主人公たちの壮絶な人生のアップダウンを眺めながら、「役者」という特殊な生業を背負った者たちの葛藤をしみじみと理解できるはずだ。




















