『あの花』から『アリスとテレスのまぼろし工場』へ 唯一無二の作家となった岡田麿里

作家・岡田麿里を読み解く

不自由な母と、自由になろうとする娘の葛藤

「劇場版 花咲くいろは HOME SWEET HOME」劇場本予告編

 その「両立」は、具体的にどのように行われているのだろうか。『劇場版 花咲くいろは HOME SWEET HOME』(2013年)は、金沢をモデルにした温泉宿を舞台にしたアニメだが、数多くの美少女たちが登場する。温泉が舞台なので、裸のシーンも多出する。さらには、『温泉仲居 泡まみれの新人研修』という性風俗を連想させる小説を作中にも登場させる、(TVシリーズでは)主人公の少女が亀甲縛りされるなど、性的なニュアンスが強い。ラディカル・フェミニズムの観点から批判的な意見を持つ観客もいるだろうと思う。

 これらのサービス的でコミカルな内容が展開する一方、深刻な物語も語られる。劇場版は、娘が母の過去を知っていくという内容であり、母の視点から物事を見れるようになっていくことで、心理的な和解に至るのだ。先述の私的な主題は様々なキャラクターに分散して担われており、家を出て東京に行こうとする意志は、むしろ若い頃の母親が抱いている。家族のために仕事を休めない女性、自由に生きることのできない女性など、シリアスな現実の一端も敢えて描かれている。

「その頃は萌えジャンルの脚本に関わることが多く、女子をひたすら書いていたのだが、私の書く女子は『男性の夢を壊す』とか『女の嫌なところが濃縮されている』と言われていた。/自分としては、リアルな女子を書きたいというつもりはまったくなかった。ただ、ほんの少しだけ現実っぽい手触りをいれたい。(……)アニメ的な記号をもった少女と、現実の少女の成分を配合するのに、当時はとてもハマっていた」(p217)

 『あの花』の舞台のモデルとなった秩父は、岡田の生まれ故郷である。そこは「閉ざされた世界」であり、そこから外に出るというモチーフが何度も変奏される。初監督作『さよならの朝に約束の花をかざろう』でも、主人公の少女が楽園のような場所から外に飛び出るところから始まり、結婚・出産のしがらみで家庭に囚われている別の女性を外に解放するところで終わる。『アリスとテレスのまぼろし工場』での外に出ようとする物語もそうであろう。そこには「外に出られた者」(自分)と「出られなかった者」(母親)を巡る罪悪感や葛藤も存在している。外に出られない理由は、子供や家族の面倒を見るためかもしれないのだ。「外に出ること」と「母娘の葛藤」が骨絡みであるとうのは、そういう意味である。

【10周年記念】「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」OP映像「青い栞」(Galileo Galilei)

 「外に出られる人」と「出られない人」(自分と母親)の葛藤の寓話として理解できるのが、『空の青さを知る人よ』である。本作は「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」という言葉をモチーフにしており、町から「外」に出ていった人ではなく、そこに留まっている人を肯定しようとする物語だ。地元を出て東京に行ったミュージシャンが、冴えない感じで凱旋してくる苦い物語内容は、「外に出る」「留まる」ことへの葛藤の表現であろう。

 ミュージシャンになるために東京に出ようとした姉が、それを諦めたのは、妹である自分を育てるためであった(母娘は、時に、アニメの快感原則のために、兄弟姉妹に変奏される)。妹は都会に出たいし、姉みたいになりたくないので、そういう言葉をぶつけてしまう。「お母さんみたいになりたくない」という意味の台詞は、『劇場版 花咲くいろは』でも現れる。

 しかし、その姉や母親のような「閉ざされた」人生は、子供や家族の面倒を見るために強いられたものであるかもしれない。あるいは、女性の社会的・経済的地位や地域の価値観のせいかもしれない。それら、女性の人生が閉ざされていることと、それから解放されようと飛び出した自分との葛藤を、岡田は丹念に描く。

 監督二作目『アリスとテレスのまぼろし工場』は、日本アニメの歴史における「アニメの寓話としての人工世界」を描く系譜にあると言える(押井守監督作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、石黒昇『メガゾーン23』など)。「まぼろし」を作る工場というのは、アニメ産業の寓意かもしれない。そこに、引きこもり・不登校や母娘の主題が絡み合っている点が、特異性だと言える。

幽霊や亡霊という主題の役割

映画『空の青さを知る人よ』予告

 幽霊、亡霊、長命の種族などの、いかにもフィクションらしい設定の導入は、アニメ的な盛り上がる内容(好きだという気持ちを告白する、すれ違う、など)と、私的な思いの籠った主題を接続する蝶番の役割を果たしている。

 『空の青さを知る人よ』の場合は、夢を持って上京した当時の「生霊」が出て来るが、それは現在のやさぐれたバックバンドのミュージシャンと対比しドラマや葛藤を盛り上げるために必要とされているのだろう。『さよならの朝に約束の花をかざろう』の、あまり年老いていかず少女のままのルックスの種族という設定は、歳を取っていく母親を描くときに観客を惹きつけ続ける手練手管であると同時に、そんな母親に育てられた息子が恋をしてしまうという葛藤とドラマの感興を高める効果をあげている。死んだはずの幼なじみが幽霊になって蘇る『あの花』もそうであろうし、閉じ込められた世界の中と外に、同じ人物が二重でいる(ある意味、主人公たちがいる閉じ込められた世界が、丸ごと幽霊であるかのような)『アリスとテレスのまぼろし工場』もそうであろう。同じ存在が二つに分裂している、という奇妙な「幽霊」「亡霊」という設定の多用は、「両立」を物語・ドラマ的エコノミー的に成立させるための工夫なのだ。

ゼロ年代における「少女」「母」表象の中で

 さて、では、岡田麿里という作家を、ゼロ年代以降に大きく隆盛したオタク文化の中で、どう位置づけることが出来るだろうか。

 ゼロ年代の「美少女」「萌え」ブームの中では、KeyやLeafなどのゲームメーカーが象徴するように、弱く心に問題を抱えた孤独な少女を救う、というモチーフが好まれた。それは、1995年以降の不況や就職難で「一人前の男」になれず、恋人や結婚相手を得られなくなった男性たちが、疑似的に家父長制的な欲望を満たそうとしている、と批判されることもあるが、筆者が好きな解釈は、「社会が過酷になり打ちのめされていた男性たちが、ある意味で女性化し、弱く儚い女性に感情移入し自己同一化していたのではないか」というものである(伊藤剛や竹熊健太郎が、女性の側に感情移入しているのではないかと問題提起したことが念頭にある)。

 そのような少女を描写するにあたって、実際に引きこもりで不登校を経験し、トラウマを抱え、コミュニケーションに不自由のある「当事者」が描くということは、リアリティや迫真性の点で(敢えて言うが)「有利」であったはずだ。それは、そのような少女を消費したいという欲望に応じることでもあり、同時に、当事者であることからくる「どうしても言わなければならないこと」を主張する機会の獲得でもある。消費者たちの欲望に基づく需要に応じ、利用しながら、それをずらし、言うべきことを言っていくという応酬が彼女の作家人生の軌跡であったと思われる。

 しかし、そのように「少女」性を求める消費の欲求に応えることは、苦ではなかったのだろうか。

 岡田はこう書いている。

「当たり前なのだが、私はその頃、少女だった。/驚くべきことに、私自身はそこに気づいていなかったのだ。(……)だいたいがその響きの美しさと似て、軽やかな繊細さ、一過性の儚さを体現する存在。そこに、登校拒否児というレッテルが貼られた汚らしい自分をあてはめることができなかったのだ。/私は登校拒否児で、そして少女である。/それが理解できただけで、びっくりするほど心が軽くなったのを覚えている」(p118-119)

 むしろ、そのようなフィクショナルな少女のように見る視線を意識することが、心を軽くさせたらしい。この心理の機微に深入りすることはここでは、やめる。

 「少女」とともにゼロ年代のオタク文化で特権的なモチーフだったものの一つが「母」である。

 オタク文化は、それ自体が「母」と結びつけられてきた。それは甘やかし、退行させ、外の世界に出て戦うのではなく、ぬるま湯の中に閉じ込めて慰撫する傾向のある文化である、という意味である。かわいい少女の見た目の少女で、甲斐甲斐しく世話を焼く、中身は「母親」である存在を消費者の男性たちは求めていると分析されていた。

 岡田は、少女と母という、ゼロ年代のオタク文化の特権的なモチーフを利用し、それを逆手にとり、欲望を受け容れ利用しつつ、当事者性と実体験から来るリアリティや批評性を籠めてきた作家だと言える。大衆文化の中で、それに寄り添いながら、批評的な内容を籠める「アヴァン・ポップ」の戦略を、女性の不登校・引きこもり・機能不全家族の立場から行ったと言えるかもしれない。女性の人生や母娘問題を描く辺りには、フェミニズム的な問題意識も見え隠れする。少女や母の理想化や、ソフトポルノ的な表象を頭ごなしに否定するのではなく、少しずつズラし、リアルを混ぜこんでいく戦略を、彼女の作家人生の軌跡からは読み取るべきだろう。

『泣きたい私は猫をかぶる』予告編 - Netflix

 『泣きたい私は猫をかぶる』は、まさにそのような「人気を得るために演じるキャラ」と、その背景にある暗く哀しい側面を両立させる彼女の作風の寓話だと読むことが出来るだろう。家庭の問題などで本当は泣きたいほど哀しいのに、明るく振舞う女の子を描いているのだ。片思いの相手に愛されるかわいい白猫になるか、人間に戻るかの葛藤を描く本作――その変身は「仮面」を被ることによってなされる――における、本当の自分を見せたら嫌われるのではないかという恋愛の機微は、観客と作り手の関係でもあるだろう。

 そこで勇気を出して、一歩踏み込み、新たな主題や物語を投入し自身を開示し続けていくことこそが、彼女の作家として見事なところである。言葉を話すことで相手を傷つけてしまうことに葛藤し、しかしそれでも「心が叫びたがって」しまう少女と、その「本当の気持ち」を受け止めようとする少年を描いた快作『心が叫びたがってるんだ。』もまた、そのジャンルの観客が好まないかもしれない内容や主題(現実のシビアさ、シリアスさ、女性のリアル)によってジャンルの輪郭を拡張し続けてきた彼女自身の作家的軌跡における葛藤と重ねて読みうるのではないだろうか。

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