『アリスとテレスのまぼろし工場』の内容を徹底考察 “人間を描く”という岡田麿里の意識

『アリスとテレスのまぼろし工場』徹底考察

 アニメーション脚本家として多くのキャリアを積み、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』などの作品で知られている、岡田麿里。監督デビューを果たした『さよならの朝に約束の花をかざろう』(2018年)に続き、監督第2作であると同時に劇場版の監督としても第2作となったのが、この度公開された『アリスとテレスのまぼろし工場』だ。『進撃の巨人』や『呪術廻戦』のアニメーションで知られるMAPPAと組んだオリジナル作品である。

 もちろん今回も自身が脚本を書いた作品だが、その内容は現在の日本のアニメーション作品としては珍しく、非常に作家性が強いものとなっている。さらに、何やら謎めいている物語や、思わせぶりな演出には、ある種のざわざわとした違和感すら覚え、本能的に“問題作”だという印象すら与えられるのだ。この背筋をゆっくり撫でられるような異様な感覚は、どこからくるのか。ここでは、本作『アリスとテレスのまぼろし工場』が、特徴的な要素を駆使しながら、何を描いていたのかを考察していきたい。

 舞台となるのは、製鉄所が産業の中心となっている、架空の小さな町「見伏」。ある日、製鉄所が大規模な爆発事故を起こして以来、町の外への道は全て閉ざされることに。そして不思議なことに時間まで止まり、住民たちは半永久的な冬の季節のなかで同じような1日をいつまでも繰り返すことになる。

 この不思議な出来事に意味を見つけ出したのは、町の神社の末裔である、佐上という中年の男。住民たちは「このまま何も変えなければ、いつか元に戻れる」という説明を信じて、できるだけ物事を変えない、自身も変わらないというルールのなかで過ごし続けることになる。

 町の住民の一人である、14歳の菊入正宗の視点で物語は展開していく。ミステリアスな雰囲気を持っている同級生の少女・佐上睦実は、そんな正宗を製鉄所の第五高炉へと連れてくる。そこには、野生の狼のような、謎の少女が一人で暮らしていた。彼女は時の止まった世界のなかで、唯一成長し続けている存在だ。

 このような特徴的な設定からは、日本の震災による原発事故や、帰宅困難地区となった場所を想起させられるところがある。もちろん、そのような含みもないわけではないだろう。だが、住民たちがそこに閉じ込められ、何も変わらないように気をつけて暮らしているという構図や、成長する少女の存在というのは、現実の状態を投影しているとは思えない。では、この設定は何を描こうとしたものなのだろうか。

 アニメファンであれば、この作品に非常に設定が似たタイトルがあることを思い浮かべるはずだ。それが、押井守監督の劇場作品『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)である。高橋留美子原作の人気漫画をTVアニメ化した『うる星やつら』シリーズの劇場版第2弾として公開された、この映画の舞台は、主人公である諸星あたるの住む「友引(ともびき)町」。そこでは、ある超常的な力によって、“友引高校文化祭前日”という一日が繰り返される。

 原作者の高橋留美子は、『うる星やつら』の劇場版第2作を、前作ほどには快く受け止めなかったということが伝えられている。その理由の一因はおそらく、同じ一日を繰り返し続けるという、この映画の内容が、いつまでも高校生から成長しない主人公と、ほぼ変化を見せない登場人物たちの日々を描いていた原作漫画の作品構造に対する、一種の風刺になっていたからではないだろうか。ここで諸星あたるが、能動的な姿勢で生きるために、繰り返しの作品世界から逃げようとする描き方というのは、『うる星やつら』という作品そのものをある意味で否定しているとも受け取られかねない、危うい性質を持っている。

 このように、本作『アリスとテレスのまぼろし工場』における閉鎖された世界が、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』同様に、創作によって作り出された世界を象徴したものだと考えれば、そこで描かれた多くの要素が、われわれ観客にとって納得しやすいものとして、意味を持ってくるのである。

 同じような一日を繰り返し、ほとんど誰も成長することがない……それは「日常系」と呼ばれたりする、シリーズ化された漫画やアニメ作品などに見られる、表現の形式だ。その世界では、登場人物たちは極力変わらないことを求められ、とりわけ群衆の一人ひとり(モブ)とされるような人物たちは、与えられた役割を超えるような行動に出ることは許されない。

 興味深いのは、正宗に恋をした同級生の少女が、突然にして消失してしまうという描写だ。彼女は消える前に、「好きという気持ちが“見せ物にされた”」と、本心を吐露している。これは、他のクラスメートたちに自分が振られた瞬間を見られたことを指していると思われるが、“見せ物にされた”という表現は、いささか不自然にも聞こえる。

 そもそも、この少女を含めた、本作の登場人物たちは、『アリスとテレスのまぼろし工場』という作品を構成するピースであり、そもそもが“見せ物”なのである。本作の世界が、アニメの作品世界を批評的に再現したものであるとするなら、そのなかで“見せ物”であることを拒否すれば、作品世界から追い出されることも道理ではないか。

 それでは、誰が本作の登場人物たちを“見せ物”として見ているのかといえば、それは紛れもなく我々映画の観客であり、TVアニメシリーズで作品世界を楽しんでいるような視聴者たちであろう。つまり、モブの人々を含めた本作の登場人物たちが存在する理由は、ひとえにアニメの製作者たちの事情や観客たちの欲求のために過ぎないのである。それならば、町の神主として、神と人々を繋ぐ役割が担わされた佐上という男が、この作品における“神”であるところの観客や作り手の意志を代弁し、作品世界に矛盾をきたさないように、ことさらに秩序を重んじようとするのも納得できる。

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