福地桃子×寛一郎の静謐な演技が光る 『そこにきみはいて』が肯定する“わかりあえなさ”

他者の存在するこの世界で生きていくのは、とても難しいことだ。異なる人間同士、深く理解し合うのは容易ではない。無数の無理解にさらされながら、いま私たちは生きている。ふと、大きな孤独感に襲われ、この世界で自分が独りぼっちだと感じてしまうことは、誰にだってあると思う。そうしたとき、あなたはあなただけの孤独感と、どのように対峙しているだろうか。

竹馬靖具監督の最新作『そこにきみはいて』は、他者と、世界と、つながることをあきらめない、そんなひとりの女性の姿を描いた作品だ。物語の主人公は、恋愛感情や性的な欲求を抱いたことのない香里(福地桃子)。恋をすること、異性とともに家庭を築くことが当然のように求められるこの社会において、彼女は自分の居場所をうまく見つけられないでいた。けれども健流(寛一郎)という男性との出会いが、彼女を変える。香里の目の前の世界がしだいに開けていく。ふたりは恋人同士ともまた違う、特別な関係性を築いていくのだ。
この人がいれば、きっと大丈夫。この人さえいてくれたら、すべて大丈夫になるーー香里はそう思っていたに違いない。ふたりは家族になることを約束する。しかし、入籍が近づいたある日、健流は自ら命を絶ってしまう。なぜ、彼は自死したのか。その理由は香里にも分からない。映画を観ている私たちにも分からない。その答えは健流の中にしかないのだろうし、ひょっとすると彼自身さえも分かっていないのではないかと思ったりする。でもそれでも香里は健流を知るために、彼の学生時代の親友である作家の中野慎吾(中川龍太郎)とともに、その足跡をたどるのだ。

この映画の種となる原案は、慎吾を演じる中川龍太郎が生み出したもの。実際に大切な存在を自死によって失ったことのある彼は、映画作家として“喪失”というテーマに挑んできた。『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(2016年)や『四月の永い夢』(2018年)を観た方は分かるだろう。今回は尊敬する竹馬監督に託し、この種を受け取った監督が、97分のオリジナル映画へと発展させた。そして中川は俳優として、再び“喪失”というテーマに挑むことに。この映画づくりにおけるふたりの覚悟がどのようなものだったのか、それはおそらく私たちの想像以上のものだったはずである。

主演の福地桃子は企画のはじまりの段階から参画している。彼女の存在そのものや、交わした言葉が大きなインスピレーション源となり、竹馬監督は福地に当て書きをした。彼女自身の持つさまざまな要素が、香里というキャラクターの重要なエッセンスになっているわけだ。物語は香里と健流の心の交歓を丹念に描くものから、健流を喪失した香里と慎吾の心の動きを繊細に捉えるものへと移行していく。つまり、この作品の主人公は香里だが、物語の中心にあるのは健流の存在なのである。




















